37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した“最期の言葉” 道長はライバルである伊周をどう思っていた?

AI要約

藤原伊周は藤原道長の甥であり、太宰府に配流される過程で不遜な行動をとり、その見苦しい姿をさらすことになる。

伊周は道長の参内の際、下人たちを乱暴に扱い、道長の供の者たちも暴れる事態を引き起こす。

この出来事が伊周の見苦しい性格を浮き彫りにし、配流される一因となった。

37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した“最期の言葉” 道長はライバルである伊周をどう思っていた?

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は道長の甥、藤原伊周と道長のエピソードを紹介します。

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■伊周は政変により太宰府に配流

 藤原道長の甥・伊周(道長の兄・道隆の子)は、権力を巡って、叔父(道長)と対峙します。しかし996年には、太宰府に配流されることとなります。

 平安時代後期の歴史物語『大鏡』には、太宰府への配流は「伊周の過失のせい」だとしながらも、たんにそれだけではなく、伊周が「日本に容れきらぬほどの才能を持っていたため」などと書かれています。ただし、その一文の直後には、伊周は落ち着きを欠いているとか、とても見苦しいとも、記されているのです。

 では、伊周の何がそれほど見苦しかったのでしょうか。

 あるとき、伊周は参内(宮中に参上)するために、北の陣(内裏の北門)から入り、西の方角へと向かいました。

 ちょうどそのとき、道長も参内途中でした。そのため、道長の下人(下僕)たちが、梅壺の東の塀際の狭いところに、所狭しと集まっていたのです。

 ところがその下人たちを、伊周の供の者たちが、邪魔だと言わんばかりに、荒々しく、追い払ってしまいました。

 行き場をなくした下人たちは、梅壺の塀の内に入るしかありません。道長は、その光景を「けしからん」と思い、眺めていました。他の者も「おかしなことだ」と感じていましたが、伊周に遠慮して、抗議できずにいたのです。

 そのとき、道長の供の者1人が、素知らぬ顔で、塀の内に入ってくる者たちを、乱暴に外に押し出そうとします。

 いったん、塀の内に入っていた人々は、雪崩のように、外に溢れ出てきました。すると外にいた伊周の供の者たちも、それ以上進むことはできなくなってしまいました。

 このとき伊周はどうしていたのでしょうか。実は、伊周はかなり太っていたようで、溢れ出てくる大勢の人々に揉みくちゃにされてしまったのです。そればかりか、筋向かいの登花殿の細殿の蔀(しとみ:板戸)に身体を押しつけられるという、無様な姿をさらしてしまったのです。