日本大使公邸占拠事件で見せたガッツポーズ…ペルーのフジモリ元大統領が86歳で死去 “ヒーロー”か“人殺し”か

AI要約

1996年12月、ペルー日本大使公邸占拠事件が起き、日本大使公邸でのテロリストの占拠状況が報道された。

犯人は14人の左翼テロ組織「MRTA」で、人質72人の中には日本人も含まれていた。

事件の経過や政府の対応、報道陣の取材活動など多くの要素が生じた。

日本大使公邸占拠事件で見せたガッツポーズ…ペルーのフジモリ元大統領が86歳で死去 “ヒーロー”か“人殺し”か

私(筆者)は一度だけ手榴弾を投げたことがある。

ある取材現場で兵士に「アボカド」のような物体を一つ手渡され、「なるべく遠くに投げてごらん」と、言われるがまま、力の限り遠くに投げた。すると「ボンっ!」と乾いた音を立てて爆発し、円形の砂ぼこりが立った。物体は手榴弾だったのだ。その取材現場とは「ペルー日本大使公邸占拠事件」である。

1996年12月。社会部記者だった私は警視庁キャップから電話を受けた。「お前、スペイン語話せたよなぁ。ペルー行くか?」。その日のうちにカメラマンとともに成田空港を出発。24時間以上かけて夜のリマにたどり着いた。長い長い「張り番取材」の始まりだった。

1996年12月17日夜、ペルーの首都・リマにある日本大使公邸では、ペルーの政府関係者、要人、各国大使、日本企業の駐在員など700人以上が出席して天皇誕生日のレセプションが開かれていた。

その真っ最中に、左翼テロ組織「トゥパク・アマル革命運動(通称MRTA)」がパーティーの関係者に扮するなどして潜入、爆発物を手に大使公邸を占拠した。

テロリストグループは14人。犯行声明を発表し、収監されている仲間全員の釈放などを求めた。しかし、時の大統領アルベルト・フジモリ氏は強固な姿勢を崩さず、釈放を拒否すると同時に、犯人の投降と人質の解放を要求したのである。

発生から1週間ほどの間に高齢者、こども、女性など、人質の多くが順次解放されたが、青木盛久大使ら日本人24人を含む72人が残され、占拠は長期化した。同時に私たちの出張も長引いた。大使公邸を見下ろすマンションのペントハウスに構えた臨時の「リマ支局」には世界中の支局の特派員が集結し、取材に当たった。

公邸の中に出入りできるのは食料や家族からの手紙を託された赤十字の職員、交渉役の神父とカナダ大使のみ。

我々報道陣はペルー政府、軍などの情報を得るべく奔走した。その中で見えてきたのは「テロ」への根深い憎しみだった。