フランス王家を断絶させた不倫スキャンダル「ネールの塔事件」とは、百年戦争の発端にも

AI要約

フィリップ4世の娘たちが不倫スキャンダルに巻き込まれ、それが後に百年戦争の火種となった

フィリップ4世の計画は息子たちや娘たちの政略結婚によって崩壊し、不倫が発覚して一連の事件が起こった

ジャンヌだけが幸せな結婚生活を送り、義姉妹たちの運命を転じることができた

フランス王家を断絶させた不倫スキャンダル「ネールの塔事件」とは、百年戦争の発端にも

「王冠を戴く者の頭は重い」とウィリアム・シェイクスピアは書いた。1300年代初頭の3人の若い女性にとって、国王の義理の娘であることは、特にその国王がフランスの冷酷なフィリップ4世であれば、重荷だった。

 それまでの多くの王たちと同じく、フィリップ4世は後継者の問題に力を注いでいた。彼の王朝であるカペー朝は900年代からフランスを支配しており、王朝の存続を確実にするために、フィリップ4世は子どもたちに政略結婚をさせ、同盟国と後継ぎを確保しようとした。

 フィリップ4世の3人の息子はフランスの貴族女性と、娘のイザベルはイングランド王エドワード2世と結婚した。しかし、1314年に子どもたちとその配偶者たちが「ネールの塔事件」に巻き込まれたことで、フィリップ4世の計画はすべて崩壊した。

 このスキャンダルは、関係者の拷問や投獄につながり、義姉妹の一人は殺された可能性がある。それだけでなく、フランス王家の後継者の危機にまで発展し、破滅的な百年戦争の火種となった。

 フィリップ4世の成人した3人の息子たちの妻はみな、隣接するブルゴーニュ地方の出身だった。長男ルイ(後のルイ10世)はブルゴーニュ公の娘マルグリットと、次男フィリップ(後のフィリップ5世)はブルゴーニュ伯の娘ジャンヌと、三男シャルル(後のシャルル4世)はジャンヌの妹ブランシュとそれぞれ結婚した。

 これらの夫婦のうち、幸せだったのは1組だけだと記録されている。王家の結婚の基準からしても、マルグリットとルイの関係は冷淡なものだった。シャルルはブランシュに対して高圧的だった。ジャンヌだけがフィリップと幸せな結婚生活を送っていたようで、この絆のおかげで後にジャンヌは、義姉妹たちを襲った悲惨な運命を免れることになった。

 スキャンダルは1313年、フィリップ4世の娘イザベルが幼い息子(後のイングランド王エドワード3世)を連れてパリを訪れたときから始まった。いくつかの年代記には、イザベルが自身の里帰り祝いとして上演された人形劇を見た後、刺繍が施された絹の財布を3人の義姉妹、マルグリット、ブランシュ、ジャンヌに贈ったと記されている。

 後日、再びフランスに帰国したイザベルは、義姉妹に贈ったはずの財布を、義姉妹に付き添っていた2人の騎士、フィリップ・ドネーとゴーティエ・ドネー兄弟がベルトに付けていることに気づいた。イザベルはこれらの財布を義姉妹と騎士たちの不倫関係の証拠だと見なし、1314年に父であるフィリップ4世に密告した。

 中世では、女性が騎士に記念品としてこのような贈り物をすることは、しばしば愛情の表れと見なされる習慣だった。しかし、財布だけでは不倫を示す十分な証拠にはならないだろう。フィリップ4世はそれよりも強力な証拠を必要とした。

 フィリップ4世は義理の娘たちとその2人の騎士を監視するよう命じた。やがて彼は、3人の義理の娘がパリ中心部のセーヌ川のほとりに立つ監視塔、ネールの塔で2人の騎士と密会していたという報告を受けた。3人の義理の娘はみなネールの塔を出入りしていたが、騎士と不倫していたのはマルグリットとブランシュの2人だけだった。

 ドネー兄弟は逮捕され、投獄された。拷問を受けた2人は、1314年4月19日に不倫を認めた。マルグリットとブランシュはノルマンディー地方にあるガイヤール城に投獄された。

 ジャンヌは騎士たちと性的な関係をもっていなかったが、共犯者として告発され、パリ近郊のドゥルダン城に監禁された。それでも、ジャンヌは夫フィリップから見捨てられることはなく、夫の援助を受け続けた。