日本の「中国ウォッチャー」の聖地・愛知大学で感じた「東亜同文書院」の”息吹き”と戦前の学生たちの恐るべき観察眼

AI要約

愛知県豊橋市にある愛知大学東亜同文書院大学記念センターは、戦前の上海に設立された「中国ウォッチャー」養成大学であり、「聖地」と呼ばれている。

東亜同文書院の元センター長である藤田佳久氏による解説によると、東亜同文書院は第15師団の跡地に建設された木造建築であり、荒尾精ら「開学の三祖」によって設立された。

荒尾精の座右の銘である「石鹸は自ら消えて、相手の垢を落とす」という精神は、日本の「中国ウォッチャー」が銘心すべき要諦であり、荒尾精のアジア主義の原点を示している。

日本の「中国ウォッチャー」の聖地・愛知大学で感じた「東亜同文書院」の”息吹き”と戦前の学生たちの恐るべき観察眼

日本の「中国ウォッチャー」の中で、「聖地」と呼ばれている場所が、愛知県豊橋市にある。愛知大学東亜同文書院大学記念センターである。東亜同文書院は、戦前の上海に日本が設立した、いわば「中国ウォッチャー」養成大学だ。

記念センターの元センター長であり、『日中に賭ける 東亜同文書院』(中日新聞社、2012年)の著者でもある藤田佳久・同大学名誉教授(83歳)に話を聞くため、同センターを訪れた。外は驟雨と暴風が吹き荒れる中、藤田氏は約2時間にわたって、同センターを案内しながら解説してくれたーー。

東海道新幹線で、東京から名古屋へ着く手前に位置するのが、人口40万人弱の豊橋である。駅に降り立つと、傘も差せないほど大荒れの空模様で、車はジグザグ走行を余儀なくされながら、ようやく愛知大学に到着した。

大学に並行して鉄道線路が敷かれており、構内は荘厳とした雰囲気だ。悪天候を差し置いても、明らかに他大学の華やいだキャンパスとは異なる。そうした印象を始めに話すと、矍鑠(かくしゃく)とした藤田名誉教授が、野太い声で説明した。

「愛知大学は、旧日本帝国陸軍第15師団の跡地に、終戦直後の1946年に建った大学なんです。この2階建ての木造建築は、日露戦争(1904年~1905年)の最中に建設され、長く陸軍司令部として使っていました。豊橋で初めての洋風建築で、コリント形式で造られています。名古屋も豊橋も、アメリカ軍の激しい空爆に遭いましたが、郊外にあったここは残ったんです」

愛知大学と言えば、東亜同文書院。東亜同文書院と言えば、「開学の三祖」、特にその筆頭・荒尾精(あらお・せい 1859年~1896年)。そして荒尾精はと言えば、ありました、座右の銘の「石鹸」である。

荒尾は、私が尊敬する明治期を代表する「中国ウォッチャー」の一人で、同センターには、荒尾の偉業とともに、揮毫(きごう)が掲げてあった。

「石鹸は自ら消えて、相手の垢を落とす」--これこそが、東亜同文書院の建学の精神であり、日本の「中国ウォッチャー」が銘心すべき要諦というわけだ。藤田名誉教授が語る。

「以前、香港のテレビ局が取材に来て、『日本人による中国へのスパイ活動秘録』といったタイトルで荒尾らを番組にしましたが、とんでもないことです。荒尾はアジア問題を広くとらえ、日本とアジアとの共存の道を求め、その後のアジア主義の原点を示しました。日清戦争(1894年~1895年)でも、日本が清国(中国)に、領土の割譲や賠償金を要求すべきでないと主張していたのです」

尾張藩士の長男に生まれた荒尾は、陸軍士官学校を出て、少尉として熊本鎮台に赴任。その後、陸軍参謀本部支那部へ異動し、1886(明治19)年に訪中。漢口(現在の湖北省武漢)に、薬屋兼書店「楽善堂」を開く。そこで現地の日本人の若者たちを集めて、広大な中国大陸の調査を行った。

3年後の1889(明治22)年に一時帰国し、翌1990(明治23)年、上海に「日清貿易研究所」という日本初の海外ビジネススクールを創設。約200人の日本人学生を集めたが、1894(明治27)に日清戦争が勃発して頓挫。失意の荒尾は1896(明治29)年、38歳の若さで夭逝した。