あの江夏豊が絶賛「最後の300勝投手」鈴木啓示とは何者だったのか?「バケモンかいな」低迷の3年を経て…怪物の逆襲がはじまった日

AI要約

鈴木啓示は日本プロ野球史上最後の300勝投手であり、多くの記録を持つ投手だ。沢村賞を受賞したことはないが、パ・リーグの投手も対象だった場合、3度受賞していた可能性が高い。育英高校時代には江夏豊に大きな影響を与えた。

鈴木が投手として評価を受けていたが、沢村賞の選考対象外であった。1977年や1978年の選考では他の受賞者よりも成績が優れていたとされる。江夏豊との高校時代の対戦も記憶に残るエピソードである。

鈴木のパ・リーグでの活躍や記録は顕著であり、彼の存在は日本プロ野球史において大きな意義を持つ。沢村賞を受賞していれば、他の名だたる投手たちと並ぶ功績を残していた可能性がある。

あの江夏豊が絶賛「最後の300勝投手」鈴木啓示とは何者だったのか?「バケモンかいな」低迷の3年を経て…怪物の逆襲がはじまった日

球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。沢村栄治、江夏豊、江川卓、山本由伸らに続く第16回は、「最後の300勝投手」鈴木啓示(近鉄)だ。

 鈴木啓示は“記録に残る大投手”である。通算317勝は史上4位。通算奪三振3061個も史上4位。通算被本塁打560本と通算無四球試合78試合はともに日本記録。6年連続最多奪三振も江夏豊と並ぶ日本記録。最多奪三振8回はパ・リーグ記録である。

 そんな「記録男」の鈴木だが、その年の最高の先発型投手に贈られる「沢村賞」に限っては、一度も手にしていない。沢村賞は、1988年まで選考対象がセ・リーグの投手に限られていたため、1966年から85年にかけて近鉄一筋で活躍した鈴木は対象外だったのだ。

 筆者の検証では、仮にパ・リーグの投手も沢村賞の対象だった場合、鈴木は1969年、77年、78年と、3度受賞していた可能性が高い。そのとおり受賞していれば、杉下茂(中日)、金田正一(国鉄他)、村山実(阪神)、斎藤雅樹(巨人)、山本由伸(オリックス)と並ぶ史上最多受賞である。

 実際、1969年の沢村賞は高橋一三(巨人)で、この年の鈴木は沢村賞選考項目である登板数、完投数、勝利数、勝率、投球回、奪三振、防御率の7項目中、勝率と防御率を除く5項目で高橋を上回っている。

 1977年の沢村賞・小林繁(巨人)との比較でも7項目中4項目で上回り、78年の松岡弘(ヤクルト)に対しても7項目中6項目で勝っている。また、77年、78年と連続してパ・リーグのMVPを受賞した同リーグのライバル山田久志(阪急)と比較しても、この2年とも鈴木が勝ち越している。

 鈴木は兵庫県の出身。育英高校(兵庫)時代は、1年下で近隣にある大阪学院大高のエースだった江夏豊に大きな影響を与えたことで知られる。

 鈴木が3年、江夏が2年のときに初めて試合で投げ合うと、延長15回で鈴木が27奪三振、江夏が15奪三振。5番打者だった江夏は5打数5三振、4番打者も5打数5三振。バットにかすりもしなかったという。(『ベースボールマガジン』2023年2月号)

「鈴木という投手をはじめて見たとたん、高校生でこんなヤツがおるんか? と驚きました。上には上がいることを教えてくれたのが鈴木だったんです。(中略)真っすぐが速かった。しかもカーブというボールをもっている。鈴木ほど大きなカーブを投げるピッチャーは、私が見たなかにはいなかった。バケモンかいなって思ったのが第一印象です」(『エースの資格』PHP新書/江夏豊著)