一度は行きたい、プレーしたい! 国内の“隠れた宝石”コース【前編】

AI要約

北海道、東北地方に位置する4つの隠れた宝石ゴルフコースについて紹介されている。

それぞれのコースの由来や特徴、設計者などが紹介されている。

地元の実業家やゴルファーの情熱と努力によって造られたコースが紹介されている。

一度は行きたい、プレーしたい! 国内の“隠れた宝石”コース【前編】

2024年7月23日号の「週刊ゴルフダイジェスト」では、国内外で数多くのコースを取材してきた、ゴルフダイジェスト特別編集委員・吉川丈雄(通称:ジョー)が日本国内の2000カ所以上あるコースの中から、名門と呼ばれるコースや、トーナメントコースのような知名度はないが、全国には足を運ぶ価値のある名コースを“隠れた宝石コース”として紹介している。みんなのゴルフダイジェストでは3回に分けてそのコースを紹介していこう。第1回目は北海道、東北地方の4コースだ!

選考・文/吉川丈雄

1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースのスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動

昭和30年代、根室のゴルファーは3時間かけて釧路のゴルフ場に出かけていたが「根室にも必要」と動いたのは根室の実業家碓氷勝三郎だった。所有していた根菜栽培の農場20万坪を使い川奈ホテルGC富士コースの工事を担当し、北海道大学農学部教授に就任していた丸毛信勝が設計をした。

碓氷が経営していた缶詰工場の社員が暇を見つけては手仕事で造り上げたコースだ。コースからは海が眺望でき、その分、風も強く、雨でも降ろうものなら気温は低下し、まるでスコットランドのリンクスでプレーをしている感覚になる。

日本銀行ロンドン支店に赴任していた時代にゴルフを覚えた君島一郎は、昭和2年に函館支店長に着任。ゴルフ場を造ろうとなり目を付けたのは競馬場柵内の空き地だった。君島は財界人を口説き、平野信男がレイアウト図を作製。芝は横浜から取り寄せ、6ホール、1860ヤード、パー24のコースが完成し会員を15名集めることができた。

競馬開催中はプレーができないことから9年後に上の高台に移転し赤星四郎設計で3100ヤードのコースを完成させた。戦後になると、再度赤星の設計で再建し現在のコースとなった。

1965年頃、マグロの水揚げを終えた北海道の漁船船主が、「次の水揚げは塩竈だ、塩竈には仙塩GCがあるからプレーが楽しみ」と言い残して出港していった。それを聞いて「気仙沼にもゴルフ場を造ろう」と考えたのは気仙沼の水産会社の千葉建郎。千葉本人も仙塩GCの会員で、かつては東北大ボート部で、ローマオリンピックに出場したスポーツマンでゴルフはHC2という腕前だった。