【ラグリパWest】みんなの先生。

AI要約

ラグビーが人生に与える影響について、小学生の頃からラグビーに親しんだ村上晃一と、ラグビー監督の山口良治の関係性が描かれている。

山口は日本代表のキッカーとして活躍し、伏見工のラグビー部監督としてチームを全国大会で優勝に導いた実績を持つが、その人柄は熱血漢ではなく、常に選手を大切にする姿勢が見える。

村上は大学時代にラグビー部での活躍を経て、取材活動を通じて山口と再会し、過去の思い出を振り返っている。

【ラグリパWest】みんなの先生。

 ふとした出会いで人生は定まる。

 村上晃一は山口良治だった。

「小5からラグビーを始めてん。ひとつ上の6年を教えてたんが、先生やった」

 つるっとした日焼け顔には笑いジワが刻まれる。ラグビー報道の第一人者は、「泣き虫先生」を淵源(えんげん)とする。

 村上の父・五郎は経験者だった。その流れで京都ラグビースクールに入る。半世紀ほど前のことは今でも鮮やかだ。西京極の緑の芝、吉祥院(きっしょういん)の土ぼこり…。2つのグラウンドが活動の拠点だった。

 競技2年目、山口と日曜日を過ごす。

「すごい楽しかった」

 ひとりサーカスだった。足の甲を使ったグラバーキックでボールをかごに入れる。

「ころころって転がって、かごの前でポンと跳ね上がって、入るんやね」

 子どもたちが土を盛り、ボールを置けば、つま先で蹴るトゥキックで、ゴールポストのど真ん中を通してくれた。

 山口は現役時代、日本代表のキッカーだった。京都市役所などでFLとして得たキャップは13。1971年(昭和46)、初来日のイングランドとの一戦にも出場した。秩父宮でのナイターは3-6。惜敗は語り草になっている。

 その山口のキャリアから見れば可能な技だが、小学生には驚きの連続だった。このスポーツが大好きになった。

 村上の小5は1975年である。同年、山口は京都市立の伏見工のラグビー部監督になった。保健・体育の教員としての赴任はその前年だったが、前任の監督がいた。

 村上は振り返る。

「先生は今でいうリクルート的な感覚ももってはったんとちゃうかなあ」

 チーム強化には「素材」である。筋のよい子どもがいれば声をかけてみる。

 ひとつ上には、土井聡と清水剛志がいた。

「土井さんや清水さんはうまかったよ」

 2人とも伏見工に入学。LO土井は明大進学の先べんをつけ、FB清水は2つ先輩の平尾誠二を追い、同大に進んだ。

 土井と清水が1年の時、伏見工は全国大会で初優勝する。60回大会(1980年度)の決勝は大阪工大高(現・常翔学園)に7-3。主将はSOの平尾だった。後年、その容姿や明晰な頭脳、そして華麗なプレーで「ミスターラグビー」と呼ばれるようになる。

 山口は監督就任わずか6年で、やんちゃだった高校生たちをまとめ上げ、深紅のジャージーを着させ、日本の頂点に立たせた。涙を流しながら、喜びを絶叫に変える姿から「泣き虫先生」の異名がついた。

 村上の記憶に残っている山口は大衆が持ったイメージとはほど遠い。

「先生は本当に優しくて、熱血という感じはまったくしいひんかった」

 相手を見て、指導を変える。山口の懐の深さを示している。

 村上は中学の部活で陸上に入る。

「結構強くて、土日に練習があった」

 ラグビーから離れる。再開は高校入学後。鴨沂(おうき)では父の後輩になる。

「体育の先生になりたかってん」

 卒業後は大体大に進んだ。監督は坂田好弘。山口の日本代表のチームメイトであり、WTBとしてのキャップは16を得た。

 村上は3年時に快挙の一員になる。1985年の秋、同大の関西リーグ連勝記録を71で止めた。スコアは34-8。村上はFBだった。同大は前年度まで平尾を擁し、大学選手権3連覇を含む4回の学生日本一の称号を得ていた。連勝記録は11年にまたがっていた。

 快挙もあり、村上は「取材する側」に興味を持つ。ラグビー部部長の中島直矢のすすめもあって、卒業後にラグビーマガジンの編集に携わる。その勤務で、上司から山口の講演会に誘われる。現場であいさつに行った。

「先生は両手で楕円を作って、僕の顔に合わせはった。小学生の時はずっとヘッドキャップをかぶっていたから、そうしはった。覚えてるよ、と言われた時はうれしかったなあ」