モンスターマンをブン投げた〝過激な仕掛け人〟新間寿氏 本人語る「猪木不在」調印式の舞台裏

AI要約

1977年8月2日、日本武道館で行われた猪木VSモンスターマンの異種格闘技戦が高く評価された。

モンスターマンは空手家で、モハメド・アリの用心棒として知られていた。

試合後、猪木は屈辱を晴らすために死に物狂いで戦ったと語り、満足の表情を見せた。

モンスターマンをブン投げた〝過激な仕掛け人〟新間寿氏 本人語る「猪木不在」調印式の舞台裏

【プロレス蔵出し写真館】「モンスターマンは凄かったね~。向こうで(米国)マーシャルアーツが出てきたとき、異種格闘技戦をやったら面白いなと思ったの。それができるのはアントニオ猪木だってことで(企画した)」。そう語るのは〝過激な仕掛け人〟と言われた新間寿氏だ。

 今から47年前の1977年(昭和52年)8月2日、日本武道館でアントニオ猪木VSザ・モンスターマンが異種格闘技戦の第6戦として行われた。この試合は、数ある猪木の異種格闘技戦の中でも名勝負として評価が高い。

 猪木番だった本紙・吉武保則記者の「猪木さんが思う異種格闘技戦のベストバウトはどれですか」という質問に猪木は「モンスターマンかな」。試合のビデオを見ながら「見てみろよ、あの足の動き。手のように自由自在に動くだろ。本当にすごいよ。あんなことできるのは、あいつだけだ」と語った。

 モンスターマンは全米プロ空手世界ヘビー級王者の肩書を引っさげ、モハメド・アリの用心棒という触れ込みだった。

 7月25日に来日し、翌26日には東京・麻布の東洋パブリック・ジムで公開練習が行われたが、猪木がすっぽかすという事件が発生。

 さらに、27日の西新宿の京王プラザホテルでの調印式にも欠席。猪木は〝雲隠れ〟してしまったのだ。

 調印式には新間氏が代理で出席。調印式が終わると、モンスターマンは壇上正面に飾ってあった猪木の写真パネルに〝怒りの〟右ストレート。床に落ちたパネルを上から踏みつけて破壊した。

 ところで、調印式では新間氏が柔道の一本背負いでモンスターマンを投げるシーンが写真に収められていた(写真)。まさか、この行為に〝キレた〟新間氏が手を出したのだろうか…。

「モンスターマンが『猪木はなぜ来ないんだ? オレが怖くて逃げたのか? お前がオレの相手をするのか?』。そう言ったから『私は柔道をやっているから、私みたいな小さい人間でもあなたを投げることはできるよ』。それで、実際に投げたわけね。そしたら、笑顔で握手を求めてきたね(笑い)」と新間氏は明かす。

「私は柔道四段って言いたいけど…(ウィリエム)ルスカと猪木戦をやったんで、講道館から破門みたいなことになっちゃったの。四段もらう寸前であの試合があった。四段を取りそこなった三段です」(新間氏)

 猪木は29日に姿を現し、事務所で会見して発熱と左足首の治療で静養だったと語った。

 新間氏は「(8月)1日の越谷市体育館まで試合日程が組まれていて、翌日モンスターマンって、いくらなんでも猪木はそんなことできませんよ。3、4日休んでベストな状態でモンスターマン戦に当てたかったから、実は休んでもらったんです」と振り返る。

 さて、試合は5Rに猪木がモンスターマンを抱えてパワーボムで叩きつけ、レフェリーの京都正武館館長・鈴木正文がダウンカウントを数えているのもお構いなくギロチンドロップを叩き込んだ。猪木がめったに見せることのないギロチンドロップを鈴木館長が思わず止めているのが〝いい味〟を出してる。

 猪木は試合後「とにかく、うれしい。私は昨年の6月26日(対アリ戦)に受けた屈辱をなんとしても晴らすために、今日という今日はそれこそ死に物狂いで戦った」と涙を流した。

 モンスターマンは韓国のタンスドー(唐手道)を学び、プロ空手で活躍した本物の空手家だった。難敵と、納得がいく試合ができたことに猪木は満足していた。

 新間氏は「そうそう、入場行進曲(テーマ曲のこと)なんか、みんなそれぞれ持つようになったからね。一番最初は『ゴング』の竹内(宏介編集長)が考えてやったことだったね(ミル・マスカラスの『スカイ・ハイ』)。新日本では、この試合から『炎のファイター』で猪木が入場しました」。後に猪木のテーマ曲として定着する〝イノキ・ボンバイエ〟はこの試合で初使用された。

「猪木から『オレに相談しないで勝手なことやりやがって』って、そういう時代はあった。『新間が何を言おうとオレはオレ』だっていうような。6メーター40(センチ)のリングの中はレスラーの〝神の領域〟だって僕は思ったからね。そこには口を出したことはありません」。新間氏はそう断言。

 満足そうに猪木VSモンスターマン戦を振り返った(敬称略)。