「パパは大谷君にホームラン打たれたことあるんだよ」大谷翔平に“日本で一番打たれた男”東明大貴の告白「次の日、僕は二軍に行きました」

AI要約

オリックスで活躍した投手、東明大貴が大谷翔平によって打たれた記録について語る。

大谷が日本ハム時代に東明に打ったホームランの記憶が体に残っていた。

東明は大谷にとって特別な存在であり、自身がNPBで最も多く打たれた投手であることを知った。

「パパは大谷君にホームラン打たれたことあるんだよ」大谷翔平に“日本で一番打たれた男”東明大貴の告白「次の日、僕は二軍に行きました」

今季、日本人選手初のMLB通算200本塁打をマークし、オールスターゲームでも自身初の一発を放った大谷翔平。いまや“世界最高の打者”とも評される大谷がNPB時代に記録した48本のホームランのうち、個人最多となる3本を献上した投手が、オリックスで活躍した東明大貴だ。“大谷にもっとも打たれた男”が明かす、肉体に刻みこまれた対戦の記憶とは。現在は不動産会社で働く東明が、Number Webのインタビューに答えた。(全2回の1回目/後編へ)

 頭で憶えていなくても、体が忘れていなかった。かつてオリックスの先発ローテーション投手として活躍した東明大貴の大谷翔平にまつわる「記憶」である。

 東明はいま、不動産会社の営業マンとして東京で働いており、日本ハム時代の大谷と対戦したのは10年も前になる。

「ちょっと曖昧になっているところもあるのですが……」

 苦笑いを浮かべながらも、やがて口調は熱を帯びていく。アーチを浴びたことが話題になったときだ。東明はその瞬間を思い出したのか、投げ終える動作を示し、顔をくるりと右にひねった。左ではなくて右。咄嗟に出た動きは自然だった。

 東明は大谷にいつも顔の右へ、つまり球場の左中間に大きな打球を飛ばされていた。この方向への長打は若きスラッガーにとって好調の証だった。ユニフォームを脱いで4年が経つ。メジャーリーグ最強打者に上りつめた大谷に対峙した感覚は、本人すら自覚しないうちに体の深いところに刻みこまれていた。

 東明自身が大谷にとって“特別な存在”なのだと気づいたのは数年前である。自宅のリビングでくつろいでいた夜、テレビでニュース番組のスポーツコーナーを見ていると、大谷が日本ハム時代に放ったすべてのホームラン映像が流れていた。ふと、あることが目についた。

 画面には、白球をとらえる大谷とともに打たれる投手が映っていた。そのなかに自分の姿を見つけたのである。

「あ、俺が出てるな」

 そう思ったのもつかの間、今度は札幌ドームのマウンドに立ちつくす自分の姿を見た。さらに少し時間が経つと、また背番号26の背中が現れるではないか……。

「俺は何本、打たれたんだろう……」

 気になった東明は、すぐにインターネットで調べはじめた。大谷が日本ハムでプレーした5年間で架けたアーチは48本。東明が打たれたのはそのうちの3本だった。しかも、すべて左翼のスタンドに達したものである。そのときに初めて知った。

「NPBで一番多く打たれた、と出ていました。でも、それも『本当かな』という、イマイチ、僕の方でも情報が多くないので半信半疑で。やっぱり、そうでしたか……」

 目の前に置かれた一枚の紙を一瞥し、東明は深くうなずいた。

 それは大谷が2013年7月10日の楽天戦で永井怜から打ったプロ初本塁打に始まり、日本ハム時代に放ったすべてのアーチに関する一覧表である。

 大谷は歴戦の好投手を打ち砕いてきた。ソフトバンク戦ではエース千賀滉大(現メッツ)のほか、中田賢一(現ソフトバンク投手コーチ)と和田毅から2発ずつ。楽天の則本昂大も餌食になった。そんななか、NPBでだれよりも多く、3本塁打を浴びたのが東明だった。

 東明は社会人の富士重工から13年のドラフト2位でオリックスに加入した。最速153km右腕は、ルーキーだった14年に5勝を挙げると、15年には規定投球回に達して10勝をマークしていた。

 5歳下の大谷と初めて対戦したのは14年。彼が高卒2年目のシーズンだった。

「打席ではそこまで威圧感はなかったですね。ただ、すごく振ってくるんです。中途半端なスイングがない。ミスが許されないバッターでした」