ボート競技で摂食障害、ガールズケイリン転向後は“センスなし”自覚 縁が助けた30歳からの競輪人生/林真奈美インタビュー

AI要約

林真奈美選手はボート競技から転向してガールズケイリン選手となり、活躍している。

若干30歳でガールズケイリン選手としてデビューし、安定した成績を収めていたが、減量の影響で苦しんだ。

現在は地元に戻り、社会復帰を果たし、新たな職業を目指して看護の学校に進む決意を固めている。

ボート競技で摂食障害、ガールズケイリン転向後は“センスなし”自覚 縁が助けた30歳からの競輪人生/林真奈美インタビュー

 日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。今回クローズアップするのは、4月に行われたG1「オールガールズクラシック」で落車負傷から復帰した林真奈美選手(38歳・福岡=110期)。ボート競技からの転向で、ガールズケイリン選手としてデビューしたのは30歳のとき。安定した成績でGIにも出場するなど順調に見えたキャリアの裏には、過去の挫折や人知れぬ苦悩があった。

 文武両道の優等生だった林真奈美は、先にボート競技で活躍していた兄の影響もあり地元の進学校・大分県立日田高校でボート競技を始める。日田高校はボートの強豪で、日々の練習は厳しかったそうだ。

「ボート一筋の高校生活でした。選考合宿や世界ジュニア選手権などボート部の活動で、体育祭や文化祭に参加できないこともありました」

 卒業後は大学進学も選択肢の一つだったが、恩師のアドバイスで状況が変わる。

「(林は)五輪を目指せる力がある。実業団のデンソーから声がかかっている」

 大学進学か実業団入りか、両親と兄に相談した。兄ふたりも世話になった信頼できる顧問の勧めだったため、実業団に挑戦することを決めた。

 高校卒業後は、愛知県にあるボート競技の強豪実業団「デンソー」に入社。社員として働きながらボート部の活動をして五輪を目指す生活が始まった。

「入社当時、仕事はフルタイム。早朝練習をして、仕事をして夜に練習。なかなかハードでした。でも少数精鋭のチームで、2004年のアテネ五輪に出場した選手(内山佳保里さん)も所属していました。目の前にトップ選手がいるので、高いモチベーションで練習することができました」

 一生懸命ボート競技に打ち込む充実した毎日だったが、しだいに林の心身は悲鳴をあげた。ボート競技でナショナルチームとして活動するには減量がつきもので、日々節制が求められていた。

「初めて世界選手権に出た入社2年目から摂食障害になってしまいました。国内のレースでは体重制限がなく練習に集中できたけど、ナショナルチーム活動となると体重の問題がありました。選考合宿に参加する段階から体重規定があり、筋肉の重量がある私には苦しかったです。ナショナルチームに挑戦できないくらい体重が増えてしまうときもあり、人の視線が怖かった。シーズン中もオフシーズンの選考合宿期間も、一年中減量を意識した生活を毎年重ねることで代償が出過ぎており、ナショナルチームでいるのはもう厳しいと感じていました」

 ボート競技には高校で3年間、実業団で9年間熱中したが、2012年のロンドン五輪が終わったタイミングで区切りを付けた。もう、身も心もボロボロだった。

「2012年のシーズンが終わった時期に母に電話しました。それまでは電話をしても私が落ち着くまで話を聞いていた母が『こっちに戻ってくる?』と言ってくれて、競技に区切りをつけることにしたんです。母は何度も仕事を休んで愛知まで来てくれたり、実家で飼っているペットの写真をメールで送ってくれたり、苦しいときはいつも支えてくれました。私の限界を察して逃げ場があることを示してくれた母には本当に救われました」

 2013年3月にデンソーを退職。同年4月、地元の日田に戻った。

「退職したあとも母は『ゆっくりしなさい。動き出したくなるまで仕事はしなくてもどうにでもなるよ』と優しかった。日田に戻った当時は燃え尽きて灰のようだったので、本当に助かりました」

 長期にわたる減量でボロボロになってしまった心と体を、地元日田の空気が癒した。1か月は何もせずゆっくり過ごすと、少しずつ回復していった。

「できることから始めよう、と地元のハローワークに出向いて、スポーツ施設で働き始めました。新しい生活に少しずつ体を慣らすと、人の視線も気にならなくなり、普通の生活ができるようになりました」

 社会復帰をすると、自然とセカンドキャリアのことを考えるようになった。

「スポーツ施設で子どもの水泳教室のお手伝いをするバイトをしながら、今後のことを考え始めました。ただもう28歳になる年だったので、年齢ではじかれる職業も多くて。その中でも昔やりたかった看護の仕事なら、今からでも目指せるかなと思い、まずは看護の学校に入るために勉強しようと」