弱小中学、高校も県16強止まり…サッカー元日本代表・中沢佑二がプロ選手になるまで「契約書ちゃんと読まないとダメよ」

AI要約

サッカー元日本代表でJリーグ横浜F・マリノスOBの中沢佑二さんが、サッカーとの出会いからプロ入り前の武者修業までを語る。

中沢さんは小6年からサッカーを始め、プロ選手としては遅かったが、Jリーグ開幕を機に真剣に取り組むようになった。

顧問の厳しさや昭和的な部活に嫌気が差し、苦しい練習を続ける中、テレビでJリーグの魅力に触れることでサッカーに対する意識が変わった。

 サッカー元日本代表でJリーグ横浜F・マリノスOBの中沢佑二さんが、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演。プロ選手としては遅すぎるサッカーとの出会い、そしてプロ入り前のブラジル武者修業について語った。

 中沢さんがサッカーを始めたのは小学6年。プロ入りしたサッカー選手としてはかなり遅い。それまでは「放課後にキャプテン翼のまねはしてた。それくらい」。当時はサッカーのルールも知らなかったという。

 中学3年間は「弱小サッカー部」だった。「本当に嫌々だった。だって小6スタートで下手。顧問の先生が怖い。怒られる。泣く。練習行くのが嫌。サッカー部に入らない予定だったけど、田舎で小中学校のつながりが強いから自動的に(入部させられた)」

 怖い顧問に厳しい上下関係。そんな「昭和的」な部活が嫌いだった。「そういう時代だったから。やるけどモチベーションは高くないから、辞める子も多かった」。同学年の部員は当初20人ほどいたが、最終的に残ったのは5人程度。サッカーは楽しいよりも、やらされている意識が強かったという。「嫌々続けてるから、サッカーもうまくなんないよね」。試合で勝ったことはほとんどなく、サッカーが上達した実感もなかった。

 中沢少年の転機になったのが、テレビで見た1992年のJリーグヤマザキナビスコカップ。Jリーグ開幕を翌年に控えたプレ大会として開催された同年のナビスコ杯は、Jリーグ初の公式大会として注目を集めた。

 国立競技場で開催された決勝はヴェルディ川崎―清水エスパルス。当時中学3年だった中沢さんがテレビで目にしたのはカズ(三浦知良)やラモス瑠偉、北沢豪らスター選手をそろえたヴェルディ。「すげえな。Jリーグができんだ。よし、じゃあプロになろう!」。本格的にサッカーに自分から向き合い始めた瞬間だった。

 進学した地元県立高のサッカー部の目標は埼玉県大会8強入り。理由は「ベスト8から(Jクラブチームの)スカウトが来るって言われてたから」。しかし、16強には届くが、あと1勝ができなかった。「16から8の壁が。日本代表と一緒だよ」