白寿の告白

AI要約

男性は40年にわたって花屋を営んできたが、妻の死を機に店を閉め、余生を霊場巡りなどで過ごしてきた。

しかし、80代半ばで事故に遭い入院することになり、子どもたちはそれぞれの事情で共同生活を勧めても、男性はそれぞれの意向を尊重しつつ自分の暮らしを決める。

現在は老人ホームに住む100歳間近の男性は、35年前に亡くなった妻に対しても話せなかった過去の思いを告白する。

白寿の告白

 間もなく100歳になろうとする男性は、老人ホームの住人だ。

 「やっと、話すことができた」

 それは、35年前に逝った妻にも話せなかった胸の内だ。

 妻と結婚したのは、中国大陸から復員して数年がたってからだ。出征前に見合いらしきものをして、婚約を済ませていた。復員したのは終戦の次の年。だが、すぐに結婚とはならなかった。

 その理由は男性にあったのだが、妻には言えなかった。

 昭和24(1949)年に「ある宣言」を聞き、それが本当だと確信できるようになった翌年に男性は花屋を始め、商売の先行きにめどが付いた年にやっと結婚をした。昭和27年。終戦からすでに7年、対日平和条約と日米安全保障条約が発効し、GHQ(連合国軍総司令部)が廃止された年でもあった。

 男性は、妻の死を機に店を閉めた。後継ぎはいない。従業員を雇って続けるほど商いは大きくない。高齢者と呼ばれる年にもなり、毎朝の市場通いもつらくなった。年金はすずめの涙しかないけれど、老後のためにと建てたアパートの家賃収入を加えれば生活は何とかなるだろうとも思った。

 40年あまり続けた花屋を閉め、妻のいなくなった男性は、身体に負担の少ない春と秋に霊場巡りに出掛けたりしながら余生を送ってきた。霊場は、四国八十八カ所だけではなく、全国の至るところにある。きちんと計画を立て、心を込めて巡拝した。

 地元にいるときは、本を読んだり、散歩をしたり…。夜は、行きつけの飲み屋で夕食を兼ねてビールと焼酎のお湯割りを飲む日々を送った。

 男性が80代の半ばを迎える頃、行きつけの飲み屋がのれんを下ろすことになった。奥さんの具合が芳しくないのと、主人自身の腰痛がひどくなったのが理由だという。

 寂しい知らせを聞いた帰り道、「これから夕飯の支度をどうしたものか、別の店を見つける元気はもうないし…」などと考えながら歩いていると、街路樹の根っこで盛り上がった歩道につまずき転んでしまった。骨折だった。救急車で運ばれた病院に、そのまま入院することとなった。

 都会に出て独立した子どもたちは、「すわ一大事」と飛んで帰って来たが、それぞれに自分たちの暮らしもある。

 歩けるようにはならないだろうという主治医の話を聞き、息子は一緒に住むことを勧めた。でも、男性は都会に出て行くつもりはない。娘は、老人ホームに入れたいらしい。そちらの思惑にも乗る気はない。