世界的にも重要な日本の花卉(かき)遺伝資源と園芸文化を継続させるために

AI要約

日本は花卉遺伝資源に恵まれた国であり、多様な自然環境と日本人の感性が花卉園芸の発展に貢献してきた。

日本の固有種や改良された園芸品種は世界的にも注目され、国際園芸博覧会でその歴史や重要性が発信される。

また、海外に日本の花卉文化や植物が広まったきっかけとなったシーボルトの活動が紹介されている。

世界的にも重要な日本の花卉(かき)遺伝資源と園芸文化を継続させるために

半田 高(明治大学 農学部 教授)

来る2027年3月から半年間、横浜市旧上瀬谷通信施設跡地(約100ha)で国際園芸博覧会(GREEN × EXPO 2027)が開催されます。この博覧会は、国際園芸家協会(AIPH)承認A1クラス、かつ博覧会国際事務局(BIE)認定の最上位の国際園芸博覧会で、日本では1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」以来37年ぶりとなります。この博覧会では、日本の花卉(かき)園芸についても、その歴史や重要性が発信される予定です。

◇日本が花卉遺伝資源に恵まれ園芸文化が発展したのは、多様な自然と日本人の感性による

花卉(かき)とは、人間が観賞する植物全般を指します。観賞植物には花だけでなく、葉や枝を観賞する観葉植物や樹木、さらにはシダやコケなども含まれます。また、遺伝資源には野山に自生する野生植物だけでなく、人間の手で選抜して改良(育種)された園芸品種も含まれます。

日本は奇跡的に観賞価値の高い花卉遺伝資源に恵まれた国です。ツツジ(躑躅〉、アジサイ(紫陽花)、ツバキ(椿)、フジ(藤)、サクラ(桜)、モミジ(紅葉)、ユリ(百合)、ハナショウブ(花菖蒲)、サクラソウ(桜草)(注:生物学では植物名に片仮名表記を用いますが、園芸文化として漢字表記も併用しました)などは、もともと日本の野山に自生する野生植物をもとに園芸品種群が作出された花卉です。一方、キク(菊)、ウメ(梅)、ボタン(牡丹)、シャクヤク(芍薬)、アサガオ(朝顔)などは古く仏教伝来とともに中国や朝鮮から主に薬用植物として持ち込まれ、その後日本で花の美しさを鑑賞するため、独自に改良されて多くの品種が生まれました。また、パンジー、カーネーション、コスモス(秋桜)、ペチュニアなどは地中海や中南米原産の植物ですが、日本で画期的な品種が作出されました。近年では、北米原産のトルコキキョウが、もともと一重咲き小輪紫色しかなかったものから日本で大幅に改良され、今ではバラやシャクヤクと見間違えるような豪華な花形と様々な花色を持つ品種となって世界中の花屋の店先を彩っています。

日本が花卉遺伝資源に恵まれ花卉園芸が発展したのは、自然と人間、その両方の力が作用しています。

日本で多様な野生植物が生まれた要因としてまず指摘するのは、日本列島の地理的位置です。北半球の中緯度のユーラシア大陸東側に位置し、四方を海で隔離された日本列島は、年間の気温、降水量、日照時間の変動が大きい明確な四季があり、このダイナミックな変化は、季節変化に合わせた性質を持つ植物が育つ要因となっています。また、日本列島は南北に長く亜寒帯から亜熱帯まで含まれ、海岸から急峻な山地までの標高差や、山地に隔てられた日本海側と太平洋側での気候の違いもあります。何万年も前に大陸や海洋島から日本列島に到達した植物は、こうした様々な自然環境に適応して次々に形態や性質を変化させていくことで、多くの固有種が生まれてきました。生物多様性が顕著な地域は「生物多様性ホットスポット」として世界中に36か所が認定されていますが、日本列島もそのうちの一つで、維管束植物だけで2500種以上の固有種(亜種・変種含む)が確認されています。

また、花卉園芸の発達には日本人の文化的背景も影響しています。例えば、米を主食とする稲作において、桜の開花を苗代の準備や田植えの基準とするなど、植物の季節変化と生活が密接に関係してきました。地域ごとのダイナミックな自然環境の違いや、同じ場所でもそれぞれの季節で見られる植物が変わる日本では、万葉集や古今和歌集などで詠まれたように、古くから野山や庭先の植物の季節による移ろいに気づき愛でる文化がありました。生け花、盆栽、庭園など、日本では自然や季節そのものを身近に楽しむ独自の園芸文化を洗練させてきました。また、先に述べたように仏教とともに薬用植物として渡来した植物も、その花の美しさを楽しみたいという人々の嗜好から日本人の感性で多くの品種が生まれました。

海外に日本の園芸植物が広く知られるようになったきっかけは、江戸時代に来日逗留したドイツ人シーボルトによるものでした。当時の日本は鎖国中でしたが、オランダ商館医の彼は長崎の鳴滝に医学・自然科学を教える塾を開くことを許されます。一方、日本の博物学的・民俗学的研究調査と日蘭貿易の再検討という使命を帯びていた彼は、全国各地から学びに来ている塾生に動植物の採集を依頼します。こうして集めた膨大な日本の植物標本をもとに後年、「日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)」を執筆し、また日本から輸送した植物を馴化する植物園をオランダのライデンに設置し、さらには王立園芸奨励協会を設立して日本産園芸植物を通信販売するなど、欧州に日本産園芸植物の一大ブームを起こしました。オランダのライデン大学植物園には、当時シーボルトが持ち帰った植物が今でも生き残っています。シーボルト以降、各国のプラントハンターが日本の花卉を求めて来日し、多くの日本産の花卉園芸品種が欧州に渡りました。明治維新の開国後は、ユリ球根を筆頭に日本産花卉が一大輸出産業となった時期もありました。