「もっと早くがんを見つけていればよかったんですよね。悔やんでも悔やみきれません」…検診を受けていたら結果は変わった?

AI要約

がん検診の重要性について、進行がんの患者や家族の心情、検診の限界などを包括的に紹介しています。

検診を受けることで恩恵を受ける可能性がある一方、検診の限界や誤診のリスクも示唆しています。

「たられば」で悩むよりも、現在の状況を受け入れ、将来に向けてポジティブに考えることの重要性を強調しています。

 がん研有明病院院長補佐の高野利実さんが、がん治療に関する素朴な疑問にQ&A形式でお答えします。

 がんがわかったとき、すでに遠隔転移がある「進行がん」でした。根治は無理で、手術もできなくて、あとは抗がん剤しかないと言われています。

 「早期発見・早期治療が大切」というのはわかっていましたが、検診の案内が来ても、忙しいし、自分は大丈夫だなんて言い訳して、受診していませんでした。

 きちんと検診を受けて、早く見つけていればこんなことにはならなかったのに。

 悔やんでも悔やみきれません。

 進行がんの患者さんの言葉です。

 「早期発見・早期治療」すればがんは治せる、というフレーズはよく聞こえてきますが、この言葉は、進行がんの患者さんには、きつく突き刺さります。

 検診を受けていれば早期発見できたのに、その機会を逃してしまったのは自業自得だ、と自分を責めてしまっている患者さんが多くいます。

 まわりの人から、「きちんと検診を受けていないからこうなったのね」と、心ない言葉をかけられることもあるようです。

 「強引にでも検診に連れていっておけば、助けられたのに……」と後悔の念を語るご家族もいます。

 そんな患者さんやご家族に、私は、こうお話しします。

 がんになったことについて、「ああしておけばよかった」と考えてしまいがちですが、それは当てはまらないことがほとんどです。検診を受けていたとしても、どんなに気を付けていたとしても、同じ結果であった可能性が高く、今の状態になったのは、誰のせいでもありません。

 過去のことをあれこれ考えるよりも、今の状態を受け止めた上で、これから先、どのように過ごしていきたいのか、そのためにどんなことができるのかを考えていきましょう。

 がん検診を受けて、「早期発見・早期治療」ができて、進行がんになるのを避けられ、命が救われる方もいますが、有効性が確立しているがん検診であっても、検診を受けて命が救われるのは、数千人に1人程度です。

 検診を受けずに進行がんになった方で、検診を受けていれば進行がんにならずにすんだ人もいるはずですが、その確率は必ずしも高くはありません。

 日本で推奨されているがん検診は、胃がん、肺がん、大腸がん、乳がん、子宮頸(けい)がんですが、これ以外のがんでは、がん検診を受けても受けなくても、そのがんで死亡する確率に明らかな違いはないと考えられますので、「検診を受けていればよかった」というのは当てはまりません。

 有効性の確立したがん検診であっても、がん検診で見つけたときに進行がんだったり、がん検診で見つけた早期がんが、その後、再発して進行がんになったり、がん検診を受けていたのに、がん検診とは違うタイミングで進行がんと診断されたり、そういうケースが一定の割合であることがわかっています。

 前立腺がんや乳がんなど、早期がんで見つかることが多いがんから、膵(すい)がんや肺がんなど、進行がんで見つかることの多いがんまで、がんの種類によって、進行がんになる割合には違いがありますが、どのようながんであっても、がん検診によって、進行がんになるはずのがんを早期に見つけ、進行がんになるのを防ぐのは、容易なことではありません。

 理論的には、どんな進行がんでも、がんを治せる早期がんの段階があったと考えられますが、その段階で診断するのは難しいことも多く、がん検診には限界があります。

 「検診を受けていればこうならなかったのに」という後悔の言葉と同じくらい、「検診を受けていたのにこんなことになるなんて」という憤りの言葉もよく聞きます。

 「がん検診さえ受けていればOK」という単純なものではないということです。がん検診で恩恵を受ける人がいるのは確かですが、完璧な検査ではないということも知っておく必要があります。

 たとえ検診を受けることで恩恵が受けられた可能性があるとしても、検診を受けることのマイナス面も考えたら、「受けておけばよかった」とは言い切れません。同じ結果になるのであれば、早くがんと診断され、早く治療が始まっていたことは、マイナスだった可能性もあります。

 「受けておけばよかった」可能性もある一方で、「受けておかなくてむしろよかった」可能性もあり、どれが真実であったかは誰にもわからないということです。そういう不確実なことを、「たられば」で考えて、悶々(もんもん)と悩む必要はないと、私は思います。