79年前に樺太に取り残されウクライナでも戦争に巻き込まれた男性 両親の故郷・信州へ初めての旅

AI要約

戦後に移住したウクライナ人男性が両親のふるさとである長野県を訪れる

父親が灯台守だったため樺太に移住し、日本の敗戦で引き揚げを余儀なくされる

80歳の男性が初めて親戚に会い、両親の希望を叶える旅をする

79年前に樺太に取り残されウクライナでも戦争に巻き込まれた男性 両親の故郷・信州へ初めての旅

79年前、日本の敗戦により当時の樺太(からふと)=現在のロシア領サハリンに取り残され、戦後に移り住んだウクライナでも、再び戦争に巻き込まれた男性がいます。

この夏、両親のふるさと・長野県安曇野市への初めての旅を取材しました。

今月(8月)初め、北海道の空港から長野県へと向かう男性がいました。

降籏英捷(ふりはた・ひでかつ)さん、80歳。

隣にいるのは妹のレイ子さんです。

月遅れの七夕の短冊にある願いを書き込みました。

■降籏英捷さん

「『飛行機が無事に着いて、故郷の親戚と無事会えますように』って…」

話しているのはロシア語です。

現在の安曇野市出身だった降籏さんの父・利勝(としかつ)さんと母・ようさん。

灯台守だった利勝さんの仕事のため、一家は太平洋戦争が始まってまもない1942年に樺太=現在のロシア領サハリンへ移住しました。

しかし、日本の敗戦間際の45年8月にソ連が侵攻。

40万人いたとされる日本人は引き揚げを余儀なくされ、父はその船を見送る業務に当たりました。

さらに、最後の引き揚げ船に乗ろうとした矢先、兄の大けがや母の妊娠もあって、帰国できなくなりました。

■英捷さん

「母は日本に帰りたがっていました。よく手紙を書いていたことを覚えています」

サハリンには、戦後の混乱で少なくとも400人以上の日本人のほか、戦後、日本国籍から除外された朝鮮半島出身者4万人から5万人が支援がないまま取り残されました。

さらに東西の冷戦が帰国を阻み、降籏さんの一家は生活のため54年にソ連の国籍を取得。

日本との行き来が始まったのは、90年代に入ってからでした。

■記者「降籏さん、ようさんですか?」

父・利勝さんは78年に亡くなっていて、母のようさんも病床に臥し、ふるさとに帰る夢はかないませんでした。

この夏、初めて実現した両親のふるさとへの訪問。

■英捷さん「(お元気ですか?)ハラショー(とても元気です)」

降籏さんが親戚に会うのは80年の人生で初めてのことです。