「幸せになれる人」と「幸せを逃す人」で異なるモノの見え方

AI要約

日々のありがたさを感じることの大切さ

日常のささいな幸せが実は奇跡の重なりであることに気づく

未来よりも今を大切にし、どうでもいいことを排除することの重要性

「幸せになれる人」と「幸せを逃す人」で異なるモノの見え方

 日々何事もなく過ごし、ちょっとしたいざこざはあっても、それが幸せだと意識しなければ気づかないかもしれない。「片づけ」のトップインスタグラマー、yur.3(ゆりさん)が心の奥の「片づけへの想い」を明かした『この服で誰かに会いたくないなと思ったらその服は寿命』から、「ふつうの日々のありがたさ」について、一部編集のうえ紹介しよう。

 昨年子どもが幼稚園で倒れました。

 幸いすぐに元気になったのですが、朝起きて目の前に子どもがいること、朝ごはんを食べてくれること、笑って遊べること。そんな当たり前のことが数えきれないほどの奇跡の重なりなんだと痛感しました。

 それは子どもが生後6ヶ月で入院したときも、つい最近大きな地震を間近で経験したときも同じ。「ふつうの日々」がどれだけありがたいかを、そのたびに確認してきました。

 日々の中に少しの「イヤなこと」はあるけれど、それは生きているからこそ起こること。子どもが感染症にかかって運動会を休んでも、車をぶつけて修理に7万円かかっても、「最悪なことにならなくてよかった」と、何に対してもそう思えるようになりました。

 私は10年先、20年先を考えるのが苦手で、働き方も片づけも、「今」いいバランスかどうかを優先しています。

 未来なんて、5年先ですらどうなっているかわからない。そう考えると、「どうでもいいこと」はできるだけ排除したい。

 あるときから子どもが、毎週のスポーツ教室が近づくとため息をついたり、園に行くことさえイヤがり始めました。「何が一番大切か」考えたとき、無理して続けて運動そのものを嫌いになるほうが、彼の人生においてマイナスのように思い、一時はやめることも検討しました。少し様子を見てまた楽しく通えるようになったので今は続けていますが、考え方はこの先も同じ。

 日常が戻ると、そのありがたさを忘れてつい望むものが大きくなったり、小さなことでイライラしたり悩んだり。だけどホントはそれさえも幸せなこと。

 疲れやストレスもあるし、人と比べて足りないところを探すのは簡単だけど、あるものを見る力で、同じ時間や環境を何倍も満ち足りたものにできることを忘れずにいたいなぁと思っています。