柄谷行人回想録:小説が「読める」批評家は 文学の潮目に立ち会った文芸時評

AI要約

柄谷行人は、1977年から78年にかけて文芸時評を執筆し、その後『反文学論』として刊行されるなど文芸評論家としてデビューした経歴を持つ。

柄谷は日本の文芸時評の制度を奇妙だとしながらも取り組み、時評を通じて新人作品や代表作品をしっかり押さえながら批評活動を行っていた。

アメリカ在住時には常に現代文学から離れていたが、無意識的感性の鋭さや普遍的な意味を追求する姿勢が、彼の文芸批評を特徴づけていた。

柄谷行人回想録:小説が「読める」批評家は 文学の潮目に立ち会った文芸時評

 柄谷行人さん(82)は、戦後長きにわたって国内外の批評・思想に大きな影響を与えてきた。柄谷行人はどこからやってきて、いかにして柄谷行人になったのか――。そのルーツから現在までを聞く連載の第14回。

――柄谷さんは、1977年から78年にかけて、文芸時評を執筆し、東京・中日・北海道・西日本新聞に掲載されます(79年『反文学論』として刊行)。文芸評論家としてデビューした柄谷さんですが、唯一の文芸時評です。

柄谷 今回聞かれるということだったので、予習のつもりでちょっと読み直してみたけど、全部忘れちゃってたね(笑)。ただ、アメリカから帰ってきてすぐにやったということは覚えてる。準備もせず、いきなりやったんですよ。もともと本になるとも思っていないし、そのとき書いて終わりという感じでした。

――“文芸時評”は、新聞や雑誌で1カ月や3カ月ごとに、その期間に発表された文学作品を論じていく批評の形式です。日本独自のものだとも言われていて、日本の文芸批評の伝統と言っていいかもしれません。執筆者は作家の場合もありますが、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、蓮實重彦と、日本文学を代表する文芸批評家はほぼ文芸時評を経験しています。新聞の文芸時評は、その月に文芸誌に発表された作品をすべて読むというのが基本です。柄谷さんは、その制度を奇妙なものだと言いつつ、一応乗っているという感じですね。

柄谷 そうですね。ただ、アメリカにいるときには、多少読むことはあっても、日本の現代文学から物理的に離れていたから、なにも用意はなかった。

――同時期でいうと、江藤淳も毎日新聞で文芸時評を担当しています。

柄谷 確かそうだった。僕が時評をやっているとき、江藤さんから、「なかなかいいね」と連絡をくれたことがあった。だけどこっちは読んでないから返事に困ったな。文芸誌に載った小説は読まなきゃ時評が書けないけど、他の人の時評を読む義務はないからね(笑)。

――『反文学論』は、いま読んでもおもしろいです。安岡章太郎がおならについて書いた小説から日本と欧米の文化論が展開されたりして。

柄谷 「放屁抄」という作品ですね。それは覚えています。

――村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的なデビューを果たしたのが1976年。柄谷さんは、アメリカでこの作品を読んで、友人に「a basically base novel based upon the base(基地に基づく基本的に卑しい小説)」と嫌悪感を漏らしたと書いています。ただ、帰国後に文芸時評を始めてから「群像」に掲載された「海の向こうで戦争が始まる」を読んで、「私の“嫌悪”の質を考えなおしてみて、それはアメリカにいたときの私が触れたくなかったものをむき出しにしていたせいではないかと思った」と。

柄谷 無意識的な感性の鋭さがあったのは確かですね。僕はアメリカで、明治文学を教えましたが、それを東洋趣味ではない、普遍的な意味をもったものと捉えた。同様に、村上龍の小説も、日本と米国といった差異の根っこのところにある現実に触れていた。

――取り上げた作品を挙げるときりがないのですが、宮本輝「螢川」(芥川賞)、田中小実昌「ポロポロ」(所収の同名単行本で谷崎賞)など、後に賞を取って代表作となる傑作を掲載時にしっかり押さえている印象です。個人的には、「隅の老人」など小林信彦をほめているのも印象的でした。

柄谷 よく覚えてないな(笑)。ただ、僕が文芸批評家であったことは確かですね。それは、大学で文学を論じているのとは違います。批評家は、作品について誰かが評価する前に思い切って言わなきゃいけない。特に新人の作品に関しては、批評家は自分の目で見極める力が問われる。新人賞の選考でも同じです。少なくとも、僕はそういうつもりで選考委員をやっていました。僕は小説を“読める”ってことに関しては、なぜか自信があった。