一度避難していた?「アメリカ同時多発テロ」行方不明の夫の「当日の行動」

AI要約

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生し、多くの犠牲者が出た悲劇を振り返る。

2024年までに23年が経ち、事件の生存者や遺族は未だに悲しみを癒すことができていない。

ニューヨーク支店に勤務していた富士銀行員の妻が、行方不明となった夫を捜索する姿を描く。

一度避難していた?「アメリカ同時多発テロ」行方不明の夫の「当日の行動」

航空機がビルに突入する――そんな信じられないことが現実になったのが、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ。NYにあるワールドトレードセンターのノースタワーに8時46分、そして隣のサウスタワーに9時3分、ハイジャックされた航空機が突入した。多くの方が犠牲になり、今もなお、悲しみが癒えない。

その事件から、2024年で23年になる。

杉山晴美さんの夫の陽一さんは、当時の富士銀行のニューヨーク支店に勤務していた。ニュージャージーに暮らす晴美さんは、9月11日の朝、テレビの画面で夫がいるはずのビルに航空機が突入し、崩落するのを目の当たりにしてしまう。さらに、多くの富士銀行員が無事と言われた中、夫は行方不明者としてニュースで名を呼ばれたことにも衝撃を受けた。

この悲しい事件を決して忘れてはならない。その思いから、事故から20年になる2021年、FRaUwebにて晴美さんが連載をした。事故から23年になる2024年の9月11日、連載第2回を再編成にてお届けする。

9月11日の翌日、行方不明となった夫を、仲間たちと捜索にマンハッタンへ行った晴美さんが見聞きしたこととは。

【9月12日】

富士銀行から「行方不明者の夫人も病院まわりに参加してはどうか」と誘いをうけた。子供たちを保育園に預け、ハドソン川を渡ってみることにした。

力斗はそれまで保育園通いをしていなかったのだが、事情を説明すると保育園の先生たちはこころよく預かってくれた。別れぎわに泣いてわたしのあとを追ってきた力斗と不安げな太一に、「おかあさんは、必ずぶーちゃをみつけてくるからね」と声をかけ、会社の迎えの車に乗りこんだ。

ニュージャージー側からはわたしの他にも二人ほど同じ車に乗り、まずはフェリー乗り場へと向かった。郊外とマンハッタンをつなぐ橋もトンネルもみな封鎖されていた。この日川を渡す手段はフェリーしかなかったのである。

車中、とんだことになったとおたがいの今の状況を話し合っていた。そのうちの一人の夫人は、しきりに携帯電話で誰かと連絡をとりあっていた。あらゆる情報網を駆使し、独自に夫探しをしているその姿に頭がさがる思いがした。元来わたしには情報収集力がかけている。会社が提供してくれる情報だけに頼るしかすべがない自分が情けなかった。