『光る君へ』三条天皇(居貞親王)の生涯、一条天皇より年上の皇太子、道長との対立の原因、4人の妃との仲は?

AI要約

三条天皇は冷泉上皇の第二皇子として生まれ、母は藤原超子。

皇太子時代が異例の25年にも及び、一条天皇よりも4歳年上で即位した。

最初の妃である綏子は居貞親王に可愛がられるも、疎ましさを感じてしまいまった。

二人目の妃である藤原娍子は、居貞親王に大変に寵愛され、合計で四男二女を出産。

娍子の後ろ盾がなくなった後も、居貞親王の寵愛は続き、道長との対立を生む原因となった。

祖父の藤原兼家の死去や後見の喪失などが、三条天皇の生涯に影響を与えた。

 今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、木村達成が演じる居貞親王(三条天皇)を取り上げたい。

 文=鷹橋 忍 

■ 冷泉上皇の第二皇子

 三条天皇は円融朝の天延4年(976)正月3日に、冷泉上皇の第二皇子として生まれた。

 母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・藤原超子である。

 諱を居貞(おきさだ)と定められ、天元元年(978)11月、数えで3歳の時に、親王宣下を受けた(以後、即位までを居貞親王、即位後は三条天皇と表記)。

 母・超子は居貞親王出産後も、貞元2年(977)に為尊親王、天元4年(981)に敦道親王を産んでいる。

■ 天皇より年上の皇太子

 居貞親王の父・冷泉上皇は、安和2年(969)に、同母弟の坂東巳之助が演じた円融天皇に譲位し、皇太子には、冷泉上皇の第一皇子で、居貞親王の異母兄・本郷奏多が演じる師貞親王(のちの花山天皇)が立てられた。

 以後、皇統は「冷泉系」と「円融系」に分かれ、交互に天皇位を継いでいく。

 円融天皇は永観2年(984)8月に譲位し、皇太子の師貞親王が17歳で花山天皇となった。

 次の皇太子には、懐仁親王が立てられた。

 懐仁親王は、円融天皇と円融の女御である吉田羊が演じた藤原詮子(藤原兼家の娘)の間に生まれた皇子で、のちの一条天皇である。

 花山天皇は寛和2年(986)6月、19歳の時、出家を遂げ、退位する(寛和の変)。皇太子の懐仁親王が7歳で即位し、一条天皇となった。

 この時、皇太子に定められたのが、居貞親王である。居貞親王は11歳、一条天皇より4歳年上だった。

 皇太子が天皇より年長というのは、異例なことだった。

 こうして、25年にもおよぶ、居貞親王の長い皇太子時代がはじまった。

■ いじらし過ぎて、疎ましい?  最初の妃・綏子

 皇太子となった居貞親王に、永延元年(987)9月、祖父・藤原兼家の三女の藤原綏子(母は藤原国章の娘/道長の異母妹)が入侍した。居貞親王12歳、綏子14歳の時のことである(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。

 歴史物語『大鏡』第四巻「太政大臣兼家」によれば、綏子は容姿に優れ、兼家からも大変に可愛がられていた。

 居貞親王も当初は「憎からぬもの」と思っていた。

 だが、居貞親王が、「私を愛しているのなら、『もうよい』と言うまで放さないように」と氷を持たせたところ、手が青黒くなるまで持っていたので、「いじらしさの度が過ぎて、疎ましく思うようになった」という。

 二人の間に子が産まれることはなかった。

 綏子は長徳年間(995~999)頃、為平親王の第二皇子・源頼定との密通が露見し、内裏から退出。

 寛弘元年(1004)2月7日に、31歳で薨去した(『権記』同日条)。

■ 二人目の妃 藤原娍子

 永祚2年(990)7月、一条天皇の外祖父として、権勢を誇った祖父・藤原兼家が死去した。居貞親王は有力な後見を失ったことになる。

 翌正暦2年(991)、居貞親王は朝倉あきが演じる藤原娍子(すけこ)を、二人目の妃に迎えた。居貞親王は16歳、藤原娍子は20歳だった。

 娍子は、当時、大納言だった藤原済時の娘だ。

 済時は藤原師尹(兼家の叔父)の子で、当時の公卿社会における序列は第七位。地位も門流もそれほど良くはない(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。

 だが、居貞親王は娍子を大変に寵愛した。

 娍子は正暦5年(994)に、居貞親王の第一皇子となる敦明親王を出産している。

 翌長徳元年(995)には、娍子の父・藤原済時が死去し、娍子の後ろ盾が完全になくなった。

 それでも、居貞親王の寵愛は続き、娍子は合計で四男二女を産んでいる。

 この娍子の存在が、のちに道長との対立を生むことになる。