高橋幸宏の一言から始まった!「トノバン 音楽家加藤和彦とその時代」のいったい「その時代」とは?

AI要約

1968年にヒットした「帰って来たヨッパライ」の歌詞から昭和時代の社会情勢と音楽シーンを振り返る。

ザ・フォーク・クルセダーズの解散後、加藤和彦がロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し、英国で名プロデューサーと作業する過程について述べられている。

バンドの活動が終わる時代に生み出された名曲「タイムマシンにおねがい」が日本の音楽業界にどのようなインパクトを与えたか。

高橋幸宏の一言から始まった!「トノバン 音楽家加藤和彦とその時代」のいったい「その時代」とは?

映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」の公開にあたって改めて「帰って来たヨッパライ」を聞いてみた。酔っ払い運転で事故死した東北弁の主人公が長い雲の階段を上って天国へ行く。そこでも酒と美女に浮かれていたら、関西弁の神様から天国を追い出されて生き返る。ラストに般若心経が読経され、ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」の歌詞が一言読まれた後、ベートーベンの「エリーゼのために」のピアノ演奏でフェードアウトする。風刺仕立てのストーリーと、テープを高速回転した甲高い声がコミカルで、今聞いても新鮮だ。

当時、京都の大学生だった加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で結成したザ・フォーク・クルセダーズによるこの曲がヒットしたのは1968年のこと。折しもマイカーブーム到来の頃で、交通事故が増えていくなか、学生運動が激化した時代でもある。必死に社会を変えようとする学生たちと機動隊との衝突があちこちで繰り返されていた頃だ。ベトナム戦争が激化し、アメリカではキング牧師やロバート・ケネディが暗殺され、パリでは若者たちによって5月革命が起こった時代でもある。激動する時代に、京都で生まれたこのコミカルな歌は日本の社会現象となり、日本音楽史上初の280万枚というミリオンセラーを記録した。

このカレッジバンドは結成1年後、大学卒業を機に解散。北山は医学、加藤とはしだは音楽の道へ進むことになる。ビートルズが好きだった加藤はその後、大好きなロンドンに出向き、本場のロックを肌で感じ取りながら、「向こうに負けない音楽を作りたい」という思いにかられていった。

盛んだった学生運動は、70年代に入るとやがて終焉(しゅうえん)する。若者たちの挫折した姿を描く「神田川」や「赤ちょうちん」といった「四畳半フォーク」がはやり出し、小さな幸せが歌われ始めたその時に、加藤はギンギンのロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成する。メンバーは高中正義、小原礼、高橋幸宏、妻の加藤ミカ、そして加藤和彦。

ファーストアルバムは日本では売れなかったものの、イギリスの音楽誌で取り上げられ、当時の名プロデューサーのクリス・トーマスからセカンドアルバムのプロデュースのオファーを受ける。クリスは、ビートルズの「ホワイトアルバム」やピンク・フロイドの「狂気」などを手がけた敏腕プロデューサーだ。クイーンからのプロデュース依頼を断って来日し、レコーディングが行われた。

この時、日本で初めての試みが数々行われたという。当時の日本は1時間でシングル1曲をレコーディングするのが常識だったそうだが、このレコーディングにかけた時間は450時間。全員がジーンズをはき、ジッパーを上げ下ろしする音を取り込んだり、OKテークのマルチテープをカットしてつなげたり、独創的な方法で誕生したのが、ロンドンのグルーブ感たっぷりのグラムロックの名盤「黒船」だ。

ちんまりした四畳半フォークがはやる時代に、名曲「タイムマシンにおねがい」が歌われる。ジュラ紀の世界に飛べば、散歩中のティラノザウルスやお昼寝するアンモナイトに、そして鹿鳴館の時代へ行けば、ワルツを楽しむ人たちに出会える。そんなピカピカでイキイキしたぶっ飛んだ内容の歌詞とガツンとしたギターサウンドが日本の音楽界に強烈なインパクトを与えた。その後、彼らはイギリスでロキシー・ミュージックのツアーのフロントアクトを務めるが、やがて加藤とミカとの離婚を機にバンドは解散する。