敏いとうさん死去84歳「敏いとうとハッピー&ブルー」よせばいいのに、など…ムード歌謡の帝王

AI要約

敏いとうさんは、敏いとうとハッピー&ブルーのリーダーとして活躍し、多くのミリオンセラーを生み出したが、10日に84歳で亡くなった。

敏いとうさんは犬の診察をきっかけに芸能界入りし、日本コロムビアからレコードデビューを果たし、その後数々のヒット曲を生み出す帝王として知られた。

敏いとうさんは所属事務所との金銭トラブルや健康問題に直面しながらも、再結成や新たな挑戦を続け、最後まで活動を続けた。

敏いとうさん死去84歳「敏いとうとハッピー&ブルー」よせばいいのに、など…ムード歌謡の帝王

 「敏いとうとハッピー&ブルー」のリーダーとして活躍した敏(とし)いとうさん(本名伊藤敏=いとう・さとし)が10日に死去したことが14日、分かった。84歳。熊本県出身。葬儀・告別式は親族で行う。

 青学大経済学部、日大農獣医学部卒業。獣医師として作曲家遠藤実氏の愛犬を診察したのがきっかけで芸能界入り。芸名は本名の伊藤敏を逆さまにした。

 69年4月に「敏いとうとブルー・キャンドル」名義で日本コロムビアから「誘惑」でレコードデビュー。71年に「敏いとうとハッピー&ブルー」を結成してリーダーに就任した。74年の「わたし祈ってます」のヒットを皮切りに「星降る街角」(77年)、「よせばいいのに」(79年)などのミリオンセラーを続々と世に送りだして「ムード歌謡の帝王」と呼ばれた。

 所属事務所との金銭トラブルで失踪騒動を起こし、91年から一時休業するが96年に再結成。2000年(平12)に発表した『HAWAII CALLS』ではハワイアンに挑戦。12年にヒット曲「星降る街角2012」を再リリースした。21年には宍戸マサルを中心に、令和のムード歌謡をけん引するグループ「新☆(SHISEI)敏いとうとハッピー&ブルー」の最高顧問に就任した。

 腕っ節が強く、来日するフランク・シナトラのボディーガード役を買って出たというエピソードを持つ。 政治への関心が高く、10年には国民新党から参議院選挙に比例区で出馬して落選したことも。

 14年に心筋梗塞で手術。19年ごろに腎臓がんで腎臓を1個摘出し、前立腺がんも見つかった。22年12月に脳梗塞と診断されて入院し23年5月に退院。「要介護5」になったが施設には入らず、子どもたちが1人暮らしの敏さん宅の通って自宅介護をしていた。

 ◆敏(とし)いとう 本名・伊藤敏。1940年(昭15)1月3日、熊本県出身。青学大経済学部、日大獣医学部卒。71年に「敏いとうとハッピー&ブルー」を結成してリーダーに。「わたし祈ってます」「星降る街角」「よせばいいのに」などが大ヒット。