野村義男「僕とマッチはどっちもうまく踊れません(笑)」たのきんトリオブーム当時の思い

AI要約

野村義男さんは、人前で話すのが苦手だったがジャニーズ事務所にスカウトされ、中野区から脱出して芸能界入りした。

レッスン場では盟友の近藤真彦と出会い、ダンスレッスンには身が入らずゲームセンターに逃げ込む姿が描かれる。

この経験が後の人生に影響を与え、野村義男さんの個性を育んでいった。

野村義男「僕とマッチはどっちもうまく踊れません(笑)」たのきんトリオブーム当時の思い

一世を風靡したドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)への出演で注目され、“たのきんトリオ”の一人として絶大な人気を誇った野村義男さん。アイドルでありながら、当時は珍しかったバンド「The Good‐Bye」を結成。その後は、ギタリストとして浜崎あゆみさんのサポートや人気音楽番組「LOVE LOVE あいしてる」(フジテレビ系)に出演するなどしてきた。ギターを愛し続ける“よっちゃん”の、THE CHANGEとは。【第1回/全5回】

 野村義男さんをイメージするとき、ほとんどの人が、あの柔和で人なつっこい笑顔を思い浮かべるのではないだろうか。事実、インタビューで野村さんを目の前にしたとき、まったく予想を裏切らないとびきりの笑顔を見せてくれた。そして、こちらの気持ちをほぐすかのようにゆっくりとした口調で、自分の半生を振り返り始めた。

「そうですね……人生の転機。ターニングポイントって、そのときどきにいろいろあって、どれか1つを選ぶことは難しいです。これまでの経験や出会いのすべてが今につながっているんじゃないかなぁって。

  ただ、まぎれもなく僕にとって大きなTHE CHANGEのひとつは、小学6年生でジャニーズ事務所(当時)にスカウトされたこと。それまでの僕は、学芸会で人前に出るのも苦手で、授業中に先生が“これ、分かる人は手を挙げて”と言ったとき、1度も手を挙げたことがないような子でした。とにかく、人前で話すのが嫌いだったんです。

 実家は、東京都中野区。『野村モータース』というオートバイ屋をやっていたんですが、そこから自転車で行けるところが僕の世界のすべてでした。バスも電車も乗らず、なんなら一生、中野区で暮らすつもりだったんです。

 そんな僕を、内心は母は“このままじゃだめだ”と不安に感じていたのだと思います。スカウトは、よいきっかけだと思ったのでしょう。事務所のレッスン場は六本木にありましたから、実家からそこに行くには電車を乗り継がなければなりません。そりゃあ、僕にとっては大冒険でしたよ。後から聞いた話では、母はドラマ『家政婦は見た』よろしく、こっそりと後からついてきていたらしいです(笑)」

「可愛い子には旅をさせよ」ではないが、母が背中を押したことで引っ込み思案だった野村少年は中野区を飛び出した。レッスン場では、今なお親しく交流する盟友、近藤真彦との出会いが待っていた。

「六本木のスタジオでいろんなレッスンを受けさせていただき、そのなかにはもちろんダンスもありました。でも、何度かやっていくうちに分かるんですよね、“これは、できそうもないな”って。だんだんとダンスレッスンに身が入らなくなり、サボりがちに。

 そんな僕とよく似た行動をとっていたのが、マッチくんでした。最初の挨拶だけ顔を出して、そのあとよく2人でゲームセンターなどに逃げ込んでましたね。だから、僕とマッチはどっちもうまく踊れません(笑)。