フワちゃん騒動で思い出す“あの日の誹謗中傷”。奥森皐月「こうして命を絶つ人がいるのか、と」

AI要約

奥森皐月がSNSの暴力性について語る。

結婚や人生に対する攻撃についての体験。

匿名性からくるSNS上の攻撃の恐ろしさ。

フワちゃん騒動で思い出す“あの日の誹謗中傷”。奥森皐月「こうして命を絶つ人がいるのか、と」

年間100本以上のお笑いライブに足を運び、週20本以上の芸人ラジオを聴く、19歳・タレントの奥森皐月。

今月は、フワちゃんの騒動を切り口に、奥森がこの1年で感じた“SNSの暴力性”と自身の思いを打ち明ける。

1年前の8月、バイト先の同僚の人に「奥森さん、『M-1』の季節が来ましたね」と言われ、「変ですよ」と答えた。

8月を「『M-1』の季節」と捉えている人は、さすがに賞レース中心の生活すぎる。『M-1』を題材とした俳句があったとしても、きっと冬の季語として使われているだろう。

YouTubeに次々と投稿される【1回戦TOP3】と【ナイスアマチュア賞】の動画を観ながらその人のことを思い出した。フランツの初日1位通過がうれしかった。

ここ1年くらい、X(旧Twitter)は暴力性と攻撃性が加速しすぎているように感じる。

本来インターネット上にある意見の大半は、素性がわからない誰かが匿名で投稿した所感に過ぎない。それなのに、いつからかその意見の大きさや多さを「正しさ」や「強さ」と捉える価値観が蔓延(はびこ)り、今やそれが当たり前のように扱われている。

多数意見に便乗して自分が偉くなった気分になったり、あえて少数意見に乗って“俯瞰”というかたちで他人を冷笑したり、人を蹴落とすやり方を「ストレス発散」や「リフレッシュ」にしている人があまりにも多い。それが悲しい。個人が悲しむべき問題ではないとも思う。

私は去年の11月に結婚の発表をした。

結婚をしたいと思った人に、結婚しましょうと言った。受け入れてもらった。私の家族も相手の家族も考えを理解し、温かく受け入れてくれた。お世話になっている事務所の人もよかったねと認めてくれた。友達や身のまわりの人が皆「おめでとう」と言ってくれた。

しかし、顔も名前も知らない会ったこともない人からだけはさんざんな言葉を投げかけられた。「気持ち悪い」と言われるのはただの“感想”だから仕方ないのかもしれない。そう感じる人がいることは想像できていたので、ひどく落ち込むことはなかった。

もともと私は人からの評価で気を病むタイプではないし、嫌なことを無視する能力も高いほうだと思っている。けれども明らかに度を過ぎた誹謗中傷や、事実と異なる情報の拡散や、家族への攻撃はやはりこたえた。

「ああ、こうして命を絶つ人がいるのか」と身をもって知った。もとからSNSの暴力性には嫌悪感を抱いていたが、より鮮やかに、より色濃くそれを感じるようになった。

電車に乗りながらふと「この車両に自分を中傷していた人がいるかもしれないな」と思うことがある。それ以上に悲しみや怒りの感情は湧かない。ただそう感じるときがあるのだ。

その人はきっと私の顔を見ても、自分がひどい言葉をぶつけた相手だとわからないと思う。あれからもう1年近く時間が経っている。その間に新たな標的を何十人何百人と見つけては攻撃しているのだろう。そして私も相手の顔を知らないから、対面しても気づくことはできない。

「あのときは感情的になっていて、あなたを傷つける言葉を投げてしまいました。ごめんなさい」なんて言ってくれる人はひとりとしていない。そこに姿形がないのだから、その自分を過去のものとして切り離してしまえばいくらでも逃げられる。なんて怖い世の中だろう。