『流麻溝十五号』時代背景を解説―なぜ離島に閉じ込められた彼女たちは日本語を話すのか?

AI要約

台湾で初めて女性の政治犯を描いた映画『流麻溝十五号』が公開中だ。1950年代の白色テロ時代に捕らえられた女性たちの物語を描き、映画を通じて当時の政治状況や人権侵害を明らかにしている。

映画の舞台は台湾の南東部の離島・緑島の監獄で、そこに収監された女性思想犯たちは政治の授業への出席や労働を強いられ、普段は外出も禁じられていた。台湾の歴史的背景や収監された女性たちの苦悩が描かれる。

当時の台湾で言論の自由が抑圧されていたが、李登輝が台湾の民主化を推し進め、白色テロ時代を終結させた。台湾の現在と過去、政治や社会の変遷について考察される。

『流麻溝十五号』時代背景を解説―なぜ離島に閉じ込められた彼女たちは日本語を話すのか?

台湾で初めて女性の政治犯を描いた映画『流麻溝十五号』が公開中だ。

時代は1950年代。彼女たちは何の罪で、離島の監獄で囚われの身となったのか? 日本語や中国語など、言語が入り混じっているのはなぜなのか? 知っていると映画がもっとよく分かるポイントを紹介。

■知識層が日本語を話す時代背景

映画の始まりの1953年から少しさかのぼる。1945年、台湾を植民地統治していた日本が第二次世界大戦に敗れ、中国を統治していた中華民国政府が台湾を接収した。この当時、中華民国を率いていたのは、中国国民党の蒋介石だ。その後、中国で中国共産党との間に内戦(中共内戦)が勃発。1949年、戦いに敗れた中華民国政府は台湾に逃れる。

台湾にやってきた国民党政府は同年、反共と政権安定を目的に戒厳令を公布。反体制的な意見を持つ者を弾圧し、多くの冤罪や人権侵害を生んだ。この弾圧は「白色テロ」と呼ばれる。

白色テロ時代とは、広義には1947年の「二・二八事件」から始まり、戒厳令が布かれていた1987年までの40年間を指す。「二・二八事件」とは、中国大陸から来た“外省人”と台湾人との間で衝突が起こった事件で、国民党の弾圧により多くの死者が出た。

『流麻溝十五号』の周美玲(ゼロ・チョウ)監督は、白色テロで捕らえられた人の多くは、台湾の自治を願った知識人たちだったと言う。

この映画を観ていると、さまざまな言葉が飛び交っていることに気づくだろう。当時の台湾の知識人といえば、主に日本時代に教育を受けた人々である。高校生の余杏惠(ユー・シンホェイ)をはじめ、日本語を話している登場人物は台湾生まれだということが分かるし、いわゆる中国語を話しているのは蒋介石率いる国民党政権と共に大陸から来た人々だと分かる。看守たちに中国語話者が多いのはそのためだ。ダンサーとして看守に特別待遇を受ける陳萍(チェン・ピン)も、そのうちの1人。「なぜ大陸から来た人まで弾圧を?」と思われるかもしれないが、中国共産党の理念に賛同する人々も、俗にいう“アカ狩り”で共産党のスパイ容疑を掛けられ、大勢が捕まった。

本作のゼロ・チョウ監督によると、映画の舞台になった台湾の南東部の離島・緑島の監獄に収容された女性思想犯のうち、大陸から来た女性は実に53パーセントを占めたという。このあたりの大陸出身者の苦労については、現在開催中の「台湾巨匠傑作選2024」で上映されている王童(ワン・トン)監督の傑作『バナナパラダイス』でも、ユーモアを交えつつ鮮烈に描かれている。

■離党・緑島に作られた監獄での暮らし

『流麻溝十五号』で思想犯とされた女性たちが収監されたのは、台東から東へ33キロ、船で50分ほどの位置にある離島・緑島だ。そこには政治犯に強制労働と再教育を科した施設「新生訓導処」と監獄があった。今では「白色恐怖緑島紀念園区」となっており、さまざまな展示や写真、資料などで当時のことを知ることができる。

監獄では、どんな暮らしが強いられていたのか? 映画の基となった本「流麻溝十五號:緑島女生分隊及其他(※正しくは、緑は旧字)」によると、収監された女性の政治犯たちは、政治の授業への出席と水くみ・糞便くみのほか、普段は外に出ることを許されず、もちろん男性との接触も禁じられた。時々、来客をもてなすためのパフォーマンス要員としてかり出されたそうだ。

■民主化を推し進めた李登輝の貢献

「この監獄を作らせたのは、蒋介石と息子の蒋経国です。言論の自由を抑圧し、自由に考える権利を奪い、台湾の未来に対する主張を黙らせるためだった」とゼロ・チョウ監督は言う。

戒厳令が解除されたのは1987年、今からほんの30年前のことだ。今ではすっかり民主的なイメージを獲得した台湾。この短期間で、どのようにして台湾は生まれ変わったのだろう?

その理由を聞くと、チョウ監督は「蒋経国が死んだからです」と即答し、こう続けた。「そしてそのとき、折良く李登輝が副総統でした」

1988年に蒋経国が死去したとき、蒋介石夫人の宋美齢は存命で、台湾にはまだ蒋介石と蒋経国を支持・擁護する人が大勢いた。李登輝の地位は不安定だったが、蒋経国の死にともない総統となったあと、さまざまな政治改革を進めていく。その中の1つが、1996年に実現した台湾初の総統の直接選挙だ。

「もちろんその間、多くの社会運動や政治運動が起こりました。例えば街頭で大勢の民主活動家がデモを行い、抗議の声をあげました。当時の私は大学を卒業したばかりで、政治担当の記者をしており、毎日そうした運動家を取材していました。幸いだったのは、こういった運動を政府が弾圧しなかったこと。総統が李登輝だったおかげで、私たちは無事に過ごせたのです。ですから、やはり台湾が民主化に向かえたのは、李登輝元総統による貢献が非常に大きかったと思います。また、台湾の国民も声をあげて改革の後押しをした。双方が作用し合ったことは、非常に重要でした」

■いまだ政治的テーマは避けられる傾向も

『流麻溝十五号』は、初めて女性の政治犯を描いた台湾映画だ。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『悲情城市』(1989年)、楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991年)など、かつて巨匠たちが白色テロを扱った骨太な作品は存在したが、民主的な社会へと大きくかじを切った台湾では、もはや白色テロ時代を題材にすることも難しくなくなったのだろうか?

「難しさはありました。実は、台湾で公開する1か月前に、ネットに『こんな映画は観るな』という意見が投稿されたんです」。

クリエイターたちの中にも、レッテルを貼られることを恐れて政治的内容を扱うことをためらう人が多いとチョウ監督は言う。

「でも、この映画で描いた内容は、いつか誰かが語らなくてはならなかった事実です。でも、台湾のクリエイターの多くは、“孤高”を保ち、政治を語ることをよしとしない。なぜ事実を語れないのか? 語れないのではなく、語る勇気がないのです」。

しかし、近年の台湾の映像作品を観ていると、当時を知らない若い世代の中にも、自分たちの方法で過去に向き合おうとする動きが生まれていると感じる。2019年には、やはり白色テロの恐怖を描いた『返校 言葉が消えた日』(日本では21年公開)という大ヒット作が生まれた。本作はジャンルとしてはホラー映画であったため、歴史的題材を真正面から描いた『流麻溝十五号』に比べると、観客にも比較的受け入れられやすかったのかもしれない。

過去を見つめ、過去への反省の中から新たな作品を生み出す。そんな台湾の作り手たちの動きに今後も注目していきたい。