『墓泥棒と失われた女神』、ああ、これが映画だ!【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.58】

AI要約

『墓泥棒と失われた女神』(23)は滋味に満ちた映画で、主人公の特殊能力や恋人を失った悲しみ、イタリアの風景などが描かれています。

映画は夢想家で生活力がないアーサーが古代エトルリアの遺跡を発見し、美しい女神像を見つけることから不思議な事件が起こります。

また、ベニアミーナの母親であるフローラ役のイザベラ・ロッセリーニの出演シーンも印象的で、アーサーにとって大切な存在として描かれます。

『墓泥棒と失われた女神』、ああ、これが映画だ!【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.58】

 『墓泥棒と失われた女神』(23)はめっちゃ気に入ったんですよ。試写会の帰り、地下鉄のつり革につかまりながら自分がニヤついてるんですね。「滋味あふれる」っていうんですか、こういう映画見たかったなぁという作品です。滋味っていうのは映画のエッセンスですね。たぶん人によって「ああ、これが映画だ!」と思うニュアンスって違うはずなんですが(やっぱり、ハリウッドっぽいエンタメ大作が「映画だ!」って方も多いですよね)、僕はかつて名画座で見たフェリーニを思い出して「ああ、これが映画だ!」と感じ入りました。監督のアリーチェ・ロルヴァケルさんってイタリアの方なんですね。劇中、「イタリア」って役名の登場人物も出てくるけど、まぁ、イタリア映画の滋味の正統な後継者ってところでしょうか。とにかく僕はニコニコしながら帰宅したと思ってください。

 ニヤついたまま帰宅すると、「ん、何かいいことあったの?」と訊かれる羽目になります。いいことはありましたね。『墓泥棒と失われた女神』を見てきた。正直にカミさんに報告したんです。そうしたら「へー、どんな話?」ということになる。これがねぇ、難しいんですよ。「1+1=2」という風にスッキリ説明できたらいいんだけど、「1+1=2」にならないようにというか、「1+1=2」になる世界を疑って、そうじゃない世界を見つけて描いていくようなというか、そういう感じなんですよ。だって例えばフェリーニって一回も「1+1=2」なんてやんなかったじゃないですか。いつも何でこう、突飛なことが次々出て来るのかとびっくりさせられた。

 『墓泥棒と失われた女神』は主人公の設定がまず良いんですね。古代エトルリアの遺跡をなぜか発見できる特殊能力を持つ男、アーサーです。彼はイギリス人の考古学愛好家ではあるんだけど、世事に疎く、その能力を役立て学者として大成しようとか、美術商として財を成そうとかそういう野心がない。とにかくポ~っとした人物なんですよ。何で彼に古代エトルリアの遺跡の在処(ありか)がわかるのか、そこは映画では描かれません。とにかくダウジングなのか何なのかわかってしまうんです。わかってしまうのにポ~っとしてしてますから、アーサーは財宝目当ての盗掘グループにいいように使われる。舞台はイタリアのトスカーナなんですが、「ポ~っとしたイギリス人」は地元でちょっと知られた存在です。

 それからアーサーは恋人、ベニアミーナを失って傷心の毎日なんです。失うといっても悲しい別離があったわけじゃなく、ぷいとはぐれてしまったような不思議な感覚です。行方不明というべきなんですかねぇ。アーサーはベニアミーナの家を訪ね、母親のフローラとも親しくしている。フローラもアーサーに娘を見つけ出してもらいたいようです。美しいベニアミーナの幻は度々、アーサーの脳裏をかすめる。これはアリーチェ・ロルヴァケル監督の作風でもあるんだけど、夢なのか現実なのか、継ぎ目がよくわからないんです。幻想世界と現実世界がユーモラスに連続している。

 つまり、主人公アーサーは徹底的に「生活力がなく」「夢想家で」「くよくよしていて」「失われた何かの行方をさがしてる人」として描かれる。で、特殊能力というか実力があるのは(何の因果か)古代エトルリアの遺跡を見つけることだけなんです。愛する人をさがすのにセンサーは働かない。代わりに美しい女神像を見つけてしまうんですね。これは大変な金銭的価値のあるものでした。そこからちょっと珍騒動が巻き起こる。

 僕はこの映画の本筋じゃないところだけど、ベニアミーナの母、フローラ役のイザベラ・ロッセリーニの出てくるシーンが好きなんですよ。デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86)などで知られる名優ですね。イタリア映画の巨匠、ロベルト・ロッセリーニの娘さん。別の言い方をするとイングリッド・バーグマンの娘さんでもあるんだけど、この人の出演シーンは利いてるんですよ。「行方知れずになった恋人の母親」です。当の本人が消えてしまった以上、アーサーとフローラはあまり関係がない。あくまで娘、ベニアミーナを介しての関係性ですよね。だから、あまり関係ないんだけど、アーサーからすると唯一、現実世界で自分とベニアミーナのつながりが確認できる「ジョイント」なんですよ。自分のことも、ベニアミーナのことも理解してくれている。

 フローラは言ってくれる。「ベニアミーナは見つかった? あきらめないで。見つけるのは得意でしょ」。これはアーサーにしてみれば「生活力がなく」「夢想家で」「くよくよしていて」「失われた何かの行方をさがしてる人」としての肯定です。嬉しい。甘えられる。僕は中学や高校のとき、友達の家にふいに立ち寄ってそこんちのお母さんに褒めてもらうのが好きだった感覚を思い出した。よそのお母さんって優しいですよね。僕の壊れそうになってる「きれいごと」を優しくくるんで、肯定してくれる。僕は友達がいない日も、わざわざ友達のお母さんに褒めてもらいたくて訪ねてみたりしました。

 愛する女性の面影を求めて、地下深くまでおりてゆくアーサーをギリシャ神話のオルフェウスに喩える解釈もあるようです。それは古事記の、黄泉の国へ旅立った妻、イザナミに恋こがれ地下深く降りていったイザナキに酷似した物語ですね。だとするとベニアミーナはもうこの世のものではないのかな。そういうロマンティックなイメージと、美術市場のエグいマネーのイメージが継ぎ目なくつながってる不思議な映画なんですよ。少しは説明になったでしょうか?

文:えのきどいちろう

1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido

『墓泥棒と失われた女神』

Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開中

配給:ビターズ・エンド

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