【プレイバック’14】「さすがに週3回は…」本誌が撮った志村けん〝夜な夜な美女と麻布十番デート〟

AI要約

志村けんさんが10年前に週に3回も美女とデートしていたことが報じられ、その姿を詳細に描写。彼の鮮やかなバイタリティとライフスタイルが伝えられている。

記事は彼の健康に対する懸念や最期まで続いた麻布十番との縁を示し、最後は新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったことも触れられている。

志村けんさんの活動や姿を振り返り、彼が残した記憶と影響力を語ることで、その人間性や芸能界での存在感が浮かび上がる。

【プレイバック’14】「さすがに週3回は…」本誌が撮った志村けん〝夜な夜な美女と麻布十番デート〟

10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は10年前の’14年6月20日号掲載の「64歳でも〝だいじょぶだぁ〟志村けん 美女と日替わり週3デート」をお届けする。

大御所なのに遊んでいる姿も決して隠すことなく自然体で振る舞っていた志村けんさん(享年70)。それゆえ、これまでに本誌は幾度となく美女と一緒にいる彼の姿をカメラにおさめてきた。だが、週に3回も撮ってしまったとなっては、さすがに記事にしないわけにはいかなかったようだ(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。

◆「毎日いるよ、ホント好きだねえ……」

御年64歳(当時)の大御所芸人・志村けん。これほどまでに本誌に後ろから前から撮られまくる有名人もいまい。なんと1週間に3回。これは彼のレギュラー番組の話ではない。本誌が東京・麻布十番で女性連れの彼に遭遇した回数だ。その詳細は……。

1回目 5月23日

《夜8時半。 麻布十番商店街の中心に位置するガールズバー『J』のカウンターで、志村はグラスを傾けていた。視線の先はカウンター内に立つ茶髪で目の大きいポチャカワ美女、Aさんだ。

Jは通りからガラス越しに店内が丸見えのため、通りすがりのカップルらがのぞきこんではつぶやく。「あそこにいるの、志村けんじゃない?」「毎日いるよ……」 そう、志村はここに頻繁に通っている。お目当てはもちろんAさんだ。

深夜1時半。近くのガソリンスタンドで待機していた志村の運転手つきロールス・ロイスが店の前に来てスッと停車する。同時に店を出てきた志村とAさんは、慣れた様子でサッと乗り込み、深夜の街に走り去っていった。》

2回目 5月26日

《夜8時。彼はビルの2階にある、やはりガラス張りで外から丸見えの焼きとん店『F』のボックス席に陣取っていた。隣にはまたしてもポチャカワAさん。そして彼女の隣には『J』の同僚らしき美女。3人は食事を終えると、近くの『J』に入っていった。Aさんと同僚、まとめての〝同伴出勤〟とはさすが〝バカ殿〟太っ腹である。》

3回目 5月30日

《夜8時。またしてもロールス・ロイスが麻布十番商店街に停まった。運転手も大変だ。うやうやしく開けられたドアから出てきた志村はハデなジャケットにピンクのキャップ。帽子は1週間前にも身に着けていたお気に入りだ。一緒に降りてきた女性はAさんとは違う、スタイル抜群のジーンズ美女。連れの女性は変えても、ファッションは変えない志村は、貫禄十分にうなぎ店『S』へと入っていった。》

とまあ、このように日替わりで美女を連れ歩いていた志村さん。そのバイタリティには、感服しかなかった──。

だが、夜毎の酒の日々はやはり健康に影響しなかったわけではなさそうだ。志村さんは’16年には肺炎で入院し、その後禁煙している。また、’18年には肝硬変と診断されたと報じられ、本人もブログで《精密検査ではありませんが やはり肝臓数値が悪く 休肝日必要と言われました》と報告していた。そしてついに’20年3月29日、新型コロナウイルス感染症にともなう肺炎のため、亡くなってしまう。その突然の死は新型コロナという未知のウイルスによるものだったこととも相まって世間に大きな衝撃を与えたのだった。

当時、本誌が麻布十番界隈で取材をしていると、ほぼ毎回目にしたのが志村さんの車だった。写真を撮ったカメラマンが全員違う点にも注目だ。実際には毎日通っていたのだろう。

志村さんと麻布十番との縁は1982年に彼がこの地にマンションを購入して住み始めたことがきっかけだったという。当時は地元の人たちと仲良くなりたくてたばこの吸い殻拾いやゴミ拾いを手伝ったり、飲み会に参加したことなどを後に明かしている。その後、志村さんは郊外に引っ越すのだが、変わらずこの街に通い続けた。この記事が掲載された’14年以降も、最後は亡くなる4ヵ月前まで本誌は女性と連れ立って街を歩く志村さんの姿を何度も報じてきた。

「志村さんが通った」といわれる店は麻布十番に何軒も存在する。酒と女性をこよなく愛した大御所コメディアンは現在もこの街の人々の中で生きているのだ。