「1億円の借金を引き継いだ20代だった」 平田オリザ、こまばアゴラ劇場の40年をすべて語る

AI要約

こまばアゴラ劇場は、平田オリザと青年団の本拠地として知られるが、2023年12月に閉館が発表された。アゴラは商店街の外れにあり、劇場の支配人である平田オリザが劇場を創設し、借金を抱えつつも助成金制度の確立に貢献した。

劇場は小さくても稽古場として機能し、青年団の名作を生み出す場となってきた。また、青年団の一連の名作を通じて、現代口語演劇の潮流を生み出す役割を果たしてきた。

アゴラ劇場の閉館により、劇場が持つ歴史や劇団の活動が終わりを迎えるが、その過去と役割は日本の演劇界に大きな足跡を残すことになるだろう。

「1億円の借金を引き継いだ20代だった」 平田オリザ、こまばアゴラ劇場の40年をすべて語る

東京大学教養学部のある目黒区駒場。小さな商店街の外れに平田オリザと彼の劇団青年団の本拠地こまばアゴラ劇場(以下、アゴラ)がある。いや、今では「あった」とすべきか。

1984年に開館したアゴラは、2023年12月に翌24年5月末での閉館が発表され、24年4月からはサヨナラ公演として青年団の代表作4作品の連続上演が行われた。今回のインタビューはその公演の千秋楽に劇場の事務所で行われた。こまばアゴラ劇場はどのように生まれ、そしてなぜ閉館することになったのか。

──今でこそアゴラは平田オリザと青年団の劇場として知られていますが、どのように始まったのでしょうか。

もともとここは商店街の中の木造の2階屋で、1階の通り側を店舗で人に貸していて、僕はここで生まれ育ったんです。父は売れないシナリオライターだったのですが、若い頃に演劇もやっていたので夢だったんですよね、劇場を作ることが。それで土地を担保にしてこの建物を建てました。それがアゴラの始まりです。貸し劇場ですね。初期の頃には出川哲朗さんが座長で内村光良さん、南原清隆さんも入っていた劇団SHA・LA・LAも利用していました。

──叔父である大林宣彦監督の映画『廃市』を上映する予定もあったそうですが。

大林さんが商業系で売れ始めた頃で、「ちょっとプライベートフィルムみたいな作品を作りたい」ということで、それを上映して劇場建設の資金を一部回収する計画だったんですが、まずそこが頓挫しました。全部父が悪いんですけど、稽古場として申請しようとして、消防署の査察の時にたまたま僕が案内したのでよく覚えてるんですけど、「これはダメだね、どう見ても劇場だよね」となって、劇場として申請する必要が出てきた。

それから、当時は映画の興業組合の力が今より強い時期だったので、そっちの問題もありました。両方とも父がちゃんと手続きをしていなかったってことですね。それで、映画で2000万円回収するつもりだったのが、逆に2000万円くらい借金が増えてしまいました。

──そういう大変な状況のなか、平田さんが大学を出て、劇場支配人になられた。

そうですね。僕は86年6月に国際基督教大学を卒業しましたので、そこからずっと支配人です。

<公共性のある民間劇場へ>

──そうして、支配人をやっていくうちに、いわゆる民間劇場の貸し館という形に違和感を感じてきたそうですね。

そうですね。たまたま家業を継ぐことになって、一方では自分も学生時代から芝居をやっていた。だからうちの強みは、芝居をやる側として、劇場というのはどんなサービスが必要なのかを考えられたってことですね。野球で言えばプレイング・マネージャーみたいな感じです。

例えばどんな劇場にも音響や照明の機材はあるけれども、一方でどんな劇団も当日のパンフレットとか印刷するわけじゃないですか。それで当時はコピー代なんかも高かったから、小劇場として多分、日本で最初に高速輪転機を入れました。要するにみんなが使うものは置いておくべきじゃないかということです。これがのちのち劇場の公共性という考え方に繋がっていくんですけど。

それから劇場を経営しているとどんどんDMが送られてくる。それならデータベース化した方がいいじゃないかってことで、これも多分、日本で最初にパソコンを入れた小劇場だと思うんです。80年代末ですからまだNECのPC88とか98とかの時代です。それで名簿ソフトを買って、すぐにマスコミリストが500件くらいと、劇団名簿が2000件くらいになって、それは後々、日本劇作家協会の設立などでも役に立ちました。

セゾン文化財団も最初の頃はうちに名簿を買いに来てました。だって、データベースがないんだから、どこにも。本来だったら国立劇場とかがやるべき仕事ですが、当時は新国立劇場もまだなかったわけで。今でこそ当たり前のことですけれども、劇場がただ単なる上演空間ではなくて、インスティチュート、機能や機関であるっていうことを、おぼろげながら80年代末くらいに考えていました。

それと、うちは稽古場があってそこに泊まれるんですが、「なんか泊まれるらしいよ」と口コミで情報が広がり、地方の劇団が東京公演で使うようになりました。そこで僕もまだ時間がありましたから、夜行バスで仙台とか盛岡とか福岡の劇団を見に行って、面白い劇団を探し出して、「大世紀末演劇展」という地方の劇団をメインに紹介するような演劇祭をやりました。バブルの時期だったので演劇祭自体は沢山あったけど、多くは売れ筋の劇団を紹介するみたいなもので、そうじゃなくて、ある種のコンセプトをもった演劇祭っていうのは当時珍しかったと思いますね。

<文化政策とこまばアゴラ劇場>

──そういうなかで、1997年にこのアゴラをちょうど挟むような感じで初台に国立の新国立劇場、三軒茶屋に世田谷区立の世田谷パブリックシアターができ、そして静岡には日本初の欧米型の芸術監督を置く県立の公共劇場SPAC(静岡県舞台芸術センター)ができて、公共ホールが充実していく動きがありました。そのなかで民間劇場を続けてきたモチベーションは?

その前にやっぱり新国立劇場の、当時は第二国立劇場って呼んでいたわけですけど、その初代芸術監督の選出などをめぐる騒動があって、そこで随分劇場とは何かということについて、外国の事例も含めて学んで、自分の感覚はそんなに間違っていなかったという感じはしていたんですよね。

その後、2000年前後から海外で仕事をするようになって、実感として、やっぱりアゴラのほうがグローバルスタンダードじゃないかっていうことを体感した。それを持ち帰って、2001年に「芸術立国論」という本を書いたり、劇場の支援会員制度を始めたりしたわけです。そこまでは官民っていうのはあまり気にせずやっていたところはあります。まだ日本における公共劇場の黎明期だったので。

──海外から来た劇場関係者が新国立劇場と世田谷パブリックシアターを視察する際にアゴラにも寄って、むしろアゴラのほうに関心もってくれる人もいたとか。

そうですね、アゴラは通り道なので。うちに興味をもってくれる理由はいくつかあるんですけど、1つはやっぱり新国立と世田谷は劇場付属の劇団をもっていないってことですよね。それは海外の劇場からすると奇異に見える。それから、まだできたばっかりだったこともあって、レパートリーもない*。まあ今ももってないですけど。

でも一番大きいのは、日本の劇場は「誰が決めているのかよくわからない」っていうのがありますね。アゴラの場合は、ここに来て、僕が「じゃあやりましょう」って言えば決まるわけで。

僕は公共ホールの関係者向けにレクチャーするときに、「持ち帰って」というフランス語はないですってよく言うんです。「持ち帰って」ってなんだよって(笑)。SPACは芸術総監督の宮城聰さんがトップセールスで行くから**、そこで決断できるわけですけど、それができないですよね。新国立劇場は特にできない。

──そうですね。じゃあ、あなた本当に芸術監督なの?と思われても仕方がない。

そうそう、海外ではそうなんです。

*レパートリーとは劇場が複数の演目を日替わりまたは週替わりで上演する公演システムで、欧米のオペラハウスや劇場では一般的な形態。

**SPACは芸術総監督が上演作品の決定だけでなく人事権、予算執行権ももっている欧州型の芸術監督システムを採用している。

──それと前後して平成になると芸術文化振興基金が創設され、日本でもようやく国による芸術活動への助成制度ができました。平田さんはアゴラで最大1億円以上の借金があって、でもそれが後になって助成金申請などで役立ったとか?

それはね、 ネタみたいなものですけど、僕の20代っていうのは、もう借金の返済の人生で、1億円の借金なんていうのはいっぺんに返せないわけですよ。

銀行としては担保があるから貸すわけで、元金がちょっとでも減ればいいんです。だから、経営計画をちゃんと示して「全然大丈夫ですけど、貸したいですか? 貸したいなら借りて、その分ちゃんと企業を大きくしますよ」って言って融資してもらうわけです。そういう企業への融資と消費者金融とは全く違うっていうことを、23歳とかで身に染みてわかったのは良かったですね。銀行は貧乏人にはお金を貸さない。

そのことが助成金の申請っていうよりも、助成のシステムとして文化芸術振興基本法*とかを作るときに役立ったんです。基本的な態度として、私たちが支援してほしいから助成してもらうのではなくて、国民の文化を享受する権利が先にあって、最高の芸術作品を提供する対価として、私たち芸術家は助成金をもらうんだっていうことですよね。だからもっと堂々と受け取りましょう、ということです。

でも、90年代中盤くらいだと、まだ多くの新劇の劇団は「貧乏だからください」と言っていて、アートマネージメント系の人たちでも「外国ではこんなに助成しています」くらいしか言えなかった。芸術への助成に税金を使う論理的な裏付けがきちんとされていなかったわけです。

だから、文化芸術振興基本法を作るときに、今の国土交通大臣の斉藤鉄夫さん、このアゴラの事務所に本当に来たんですよ。彼は自分が工学博士だから科学技術基本法を作っていて「それはわかる。国家の利益になるから。でも、芸術文化は個人の内面のことだから、その法律を作ることが本当に芸術家の益になるのかどうか、自分は疑問に思っていたんだ」と。でも、僕の話を聞いて「なるほど、これは芸術家の益になるものじゃなくて、国民の益になる法律だ。芸術関係者はその益の提供者なんだ」と。それで俄然法案成立にスピード感が出ました、という話は今でも、斎藤先生がよくしてくださるんです。

*2001年に超党派による音楽議員連盟が中心となって成立した文化芸術の振興にあたっての基本理念を定めた法律。政府は文化芸術の振興に関する基本的な方針を策定し、文化芸術の各分野の振興、国際文化交流の推進、劇場・音楽堂等の充実などのため国は必要な施策を講ずるといった規定で構成されている。2017年の法改正後は名称が文化芸術基本法となっている。

<日本の現代演劇の潮流を生んだ劇場>

──アゴラが青年団のホームとして果たした役割、特に現代口語演劇を生み出したという点はどう考えていますか。

そうですね、空間自体がものすごい小っちゃいっていうことがまずありますよね。それと僕の作品は人物同士の距離感とかが大事なお芝居なので、小さいなりに稽古場が舞台と同じ大きさで、ある程度セットも組めて稽古できることのメリットは結構大きくて。

みんな仕事やバイトとかしていましたけど、好きなだけ稽古を集中してできて、それが今も国内外で上演されている青年団の一連の名作を生むことになったことはもう間違いないですね。

──役者たちの部分で言うと、亡くなられた志賀廣太郎さんはじめ、古館寛治さんとか、テレビや映画でも活躍するような役者を輩出した点でも果たした役割があると思います。

そうですね、それはたまたまというか。ただ、劇作家、演出家も含めて、こういう場を作れば、才能は集まってくるってことだと思いますけどね。

──ある種、競争の原理がうまく働いた?

そういうこともあります、演出家はそうですね。よく言われるんです。「なんでこんなに岸田國士戯曲賞受賞者が青年団から続いて出るのか」って*。今もノミネートが続いています。

ただ本当に何にも教えてないんですよ。入団した1年目だけですね。ワークショップとか、レクチャーも結構みっちりやるんですけど。大きいのは、単なるライバル関係とか切磋琢磨じゃなくて、作品のスタイルはバラバラだけれど共通言語をもっているので、お互いが見に行って、打ち上げとか飲み会のときに、相互批評の言葉をもっているんですよ、うちの演出部同士は。

僕にそういうことを習うので(相互批評をするようになる)。それが日本の演劇界に一番足りないもので、基本的に演劇教育がないので皆バラバラでしょ。そこが青年団では曲がりなりにも1本線があるので、多分そこが強かったんじゃないかなと思ってるんです。

*岸田國士戯曲賞は、白水社が主催する新進劇作家の登竜門とされる賞。平田自身は、1995年に『東京ノート』で受賞。また青年団所属としては2008年前田司郎、2010年柴幸男、2011年松井周、2013年岩井秀人、2020年谷賢一(2022年退団)、2022年福名理穂が受賞、2024年も菅原直樹が最終選考に残った。

──アゴラ劇場は今日、夜の公演で閉館になります。先ほど昼の公演の最後に観客に挨拶されたそうですが。

そうですね、ありがとうございますと。ちょっとだけ思い出話もしました。母は公務員で、その後大学の教授になったんですけど、本当に経営が大変だったときに従業員も雇えないから母が出勤前に楽屋のトイレとか掃除してから出勤してたんです。よく父と母が言っていたのは、「楽屋っていうのは俳優さんが唯一ひとりっきりになって涙を流すところだから、ここは綺麗にしなきゃいけないんだ」と。そんなことを話しました。

平田オリザへのロングインタビュー、第2弾では劇場閉館の真相と今後の拠点・豊岡での活動に迫る