「消えた日本兵1万人」の行方を追ったら、「核兵器と硫黄島」の秘密にぶつかった!

AI要約

硫黄島での謎の日本兵1万人の消失や核戦略の影響について探る。硫黄島が冷戦の緊迫化と共に軍事的価値を持ち、遺骨収集が制限された経緯を解説。

1950年代から実施された核兵器の配備により、硫黄島は米国の安全保障政策の一環として位置づけられた。

遺骨収集が停止された“空白の15年間”を経て、核関連の兵器が撤去された1966年までの経緯を検証。

「消えた日本兵1万人」の行方を追ったら、「核兵器と硫黄島」の秘密にぶつかった!

 なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。

 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

 各種文献を探ると、硫黄島と核を巡る戦後史は、次のような経過を辿った。

 戦後、島民不在となった硫黄島は、時代を追うごとに軍事的価値が高まっていった。ディーン・アチソン国務長官は1950年1月の演説で、フィリピン、沖縄、日本列島、アリューシャン列島を結ぶ線を対共産国の「不後退防衛線」と定めると表明し、この軍事戦略に硫黄島も組み込まれることになった。そして同年6月に朝鮮戦争が勃発すると、硫黄島は米国本土と最前線をつなぐ中継地点としてさらに重要視されるようになった。

 日本政府が1952年に初めて戦没者遺骨の調査団を派遣した時、硫黄島は軍事拠点化が急速に進展する最中にあった。だから、僕が厚生労働省に開示請求した1952年の報告書には、〈7年の歳月と、加えられた人工の力〉によって〈玉名山は頂上が(中略)現存しな〉くなるほど島が激変した様子が記されていたのだ。島の変貌の背景には、冷戦の緊迫化があったのだ。

 翌1953年は、硫黄島を皮切りに、ペリリューやサイパンなど米国統治下の「南方八島」の遺骨収集が行われた年だ。しかし、米国が認めた各島での遺骨収集はたった1回のみ。上陸日数は1~2日だ。硫黄島の場合、遺骨収集作業を行えたのはわずか数時間だった。

 なぜ米国側はここまで限定したのか。浮かび上がったのは当時の核戦略だ。

 この年、1953年は、アイゼンハワー大統領が「大量報復戦略」を採用した年だ。大量報復戦略とは、圧倒的な核の報復能力を持つことでソ連による西側諸国への侵攻を抑止しようとするものだった。核を配備する要衝の一つとして、硫黄島は位置づけられたのだった。その結果、1956年2月から、秘密裏に核兵器が配備されることになったのだ。

 核関連の兵器が撤去されたのは10年後の1966年6月。この10年間は、1953年を最後に一度も遺骨収集が行われなかった“空白の15年間”と重なる。これは何を意味するのか。

 冷戦時代を迎えた米国の安全保障政策によって、遺骨収集は阻まれたのだ。