「ご供養かなと思ってね...」今明かされる吉本の「売れっ子漫才師」と「伝説の踊り子」との”意外な関係”

AI要約

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した伝説のストリッパー、一条さゆりの生涯を追う。

漫才師中田カウス・ボタンが一条さゆりに対する深い思いを語る。

カウスとボタンのコンビ結成までの経緯が明かされる。

「ご供養かなと思ってね...」今明かされる吉本の「売れっ子漫才師」と「伝説の踊り子」との”意外な関係”

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、転落していく。そんな彼女を人気漫才師中田カウス・ボタンのカウスが「今あるのは彼女のおかげ」とまで慕うのはいったいなぜか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第2回

『「伝説の踊り子」がまさかの逮捕...「男たちの憧れ」を「トコロテン売り」へと変えた衝撃の事件』より続く

吉本興業本社の会議室のテーブルには、透明のアクリル板が立っていた。新型コロナウイルス感染対策である。カウスはその板の向こうに腰をおろすと、開口一番こう言った。

「(インタビューに応じるのも)ご供養かなと思ってね。時々、ふっと(一条を)思い出すんです」

カウスはこれまでにも、一条についてメディアに語っている。ただ、それはちょっとしたコメントを出す程度だった。彼の一条への思い入れは、私が予想していたよりもはるかに強かった。

「ほんまに世話になりました。極端な話、カウス・ボタンがあるのは一条さんのお陰なんです。それほどの存在です。これまでも何度か、面白おかしく話したことはあるんですが、短い時間では、僕と一条さんの関係は、わかってもらえへんのちゃうかと思ってね。これまでちゃんと説明してこなかったんです」

一条が亡くなり4半世紀近くになる。このあたりで一度、その思いをちゃんと伝え残しておこうということだろう。彼女が絶頂にあったころの芸、当時の素顔を間近で見た者の責任と考えているようだった。彼はそれを、「供養」と表現している。

カウスは1949(昭和24)年、愛媛県今治市の伯方島に生まれた。一条の12歳下になる。

父は和菓子問屋の四男。「まるきん商店」という和菓子屋を営んでいた。カウスが小学2年の4月、地元神社で開かれた春の祭事に、旅芸人一行がやってきた。漫才師が芝居小屋の舞台に立つと、神社全体に大きな笑いが広がった。これを見たとき、カウスは漫才師になろうと決意した。

中学を卒業すると集団就職で大阪に出る。雑誌に付いていた著名人住所録を頼りに漫才師の家を訪ねた。弟子にしてほしいと懇願して回りながら、大阪・ミナミのバーでアルバイトをしていた。ボタンと出会ったのはそんなときだ。彼が客として、その店にやってきたのだ。ボタンはお好み焼き店でのバイトを辞めようと考えていた。

カウスは相方を探していた。条件は、自分よりも身長が低く、可愛げがあっておしゃれなことだった。ボタンはそれを満たしていた。「一緒に漫才せえへん?」と声を掛けて67年3月、コンビを結成する。カウス18歳、ボタン19歳である。

『「お客様がいるとこならどこでも...」中田カウスがかつて修行していた「ヤバすぎる場所」』へ続く