自衛隊基地の壁に残る「MP」の2文字 沖縄の基地負担へと続く「キャンプ岐阜」の歴史

AI要約

岐阜県各務原市にある航空自衛隊岐阜基地は、日本最古の飛行場として歴史を持ち、戦後には米軍に接収され「キャンプ岐阜」として使われた。戦闘機の製造や空襲による被害など、基地の過去が色濃く残る。

戦後に米軍が進駐した際には、娯楽施設や倉庫などの施設が整備され、今もその名残が見られる。ペンキの跡や倉庫の壁に残る文字など、キャンプ岐阜時代の痕跡が残る。

航空自衛隊岐阜基地は、それまでの歴史と米軍時代の遺産を継承しながら、今も活動を続ける。周辺住民の証言や施設の痕跡から、基地が地域に与えた影響が伺える。

自衛隊基地の壁に残る「MP」の2文字 沖縄の基地負担へと続く「キャンプ岐阜」の歴史

岐阜県各務原市には現存する日本最古の飛行場があり、航空自衛隊岐阜基地として機能していますが、戦後すぐに米軍に接収され「キャンプ岐阜」として使われた時期がありました。当時を知る人たちの証言などから、今に続く日本の米軍基地問題が見えてきました。

 岐阜県各務原市にある航空自衛隊岐阜基地の歴史をひもとくと、旧陸軍が飛行場を建設したのは1917年のことで、5年後には隣に現在の川崎重工が航空機工場を、1927年には三菱重工が整備工場をつくりました。

 

 現在、岐阜基地に隣接する航空宇宙博物館に展示されている戦闘機「飛燕」は1941年の初飛行から終戦までの間、各務原でおよそ3000機が製造されました。

 そんな「飛行機のまち」は戦時中、何度も米軍の標的となりました。1945年6月。2度にわたる大規模な爆撃で、200人以上が亡くなりました。当時、小学4年生だった足立勘二さん(89)はこう振り返ります。

「80年も前の話ですけど、つい昨日のように思い出すというのは相当怖かったんだろうなという気はしますね。1回目か2回目だったか、燃料庫に爆弾が落ちてものすごく真っ黒な煙で燃え上がって、夜になっても消えなかった。翌日午前中くらいになってやっと鎮火した。置いてあった燃料が全部燃え尽きちゃったんじゃないか」

 空襲だけでなく米軍機からの銃撃も鮮明に覚えているといいます。

「『きょうはえらい低いところを飛行機が飛んでくるな』と思ったら、ほんの100mくらい手前を飛んで行った飛行機を見たら、胴体にアメリカのマークがついていて、友達のお母さんが肩を撃たれて、麦を刈っていたばあさんが即死した。それまで『空襲は名古屋』だと思ってたけど、それからはものすごく神経質になった」

 終戦後の1945年10月、米軍は各務原の飛行場におよそ4000人の米兵を派遣し進駐を開始しました。新たに整備された「キャンプ岐阜」には娯楽用のボウリング場も作られたそうです。

 旧各務ヶ原飛行場で、現在の航空自衛隊岐阜基地には「米軍時代」の名残があります。赤茶色の倉庫の壁に、うっすらと残る「MP」の文字。「CAMP」の一部が消えた、ペンキの跡です。その下には「LAUNDRY」の文字も見え、当時、洗濯場として使われていたことが分かります。

 

 他の倉庫にも「HANDBALLCOURT」や「CAMP GIFU GYM」と書かれた跡が残っています。

各務原市教育委員会の西村勝広課長は「ペンキを上に塗っているんだけれども、それが剥げて下地が見えている。キャンプ岐阜になってから、文字を書き入れた。返還されて岐阜基地になってから、文字を塗りなおした。それが剥げて1つ下の文字が見えている」と話します。