40万人を生き埋めにした将軍に「軍神」昭王は死を命じた…『キングダム』始皇帝誕生までに流れた血の多さ

AI要約

秦王家の起源から始皇帝誕生までの歴史を振り返ると、周王朝の家臣から始まり、700年を経て31代君主・始皇帝が誕生した。

春秋時代初期には秦は他の諸侯から低い評価を受けており、辺境の蛮国と見なされていたが、穆公、商鞅、昭王の活躍により飛躍を遂げる。

昭王時代には40万人の大虐殺が起こり、多くの血が流れたが、その後着々と始皇帝誕生へと歴史は進んでいく。

原泰久によるベストセラーコミック『キングダム』では、始皇帝こと嬴政の前の時代も描かれる。古典中国研究の第一人者である渡邉義浩さんは「秦の王家は周王朝の家臣から始まり、700年を経て31代君主・始皇帝を誕生させた。しかし、天下統一に至るまでは、28代君主・昭王の時代に40万人の大虐殺を起こすなど、多くの血が流れた」という――。

 ※本稿は、渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想 「キングダム」で解く中国大陸の謎』 (集英社新書)の一部を再編集したものです。

■31代君主・始皇帝を生んだ秦王家のロイヤルブラッド

 のちに始皇帝となる秦(しん)王・嬴政(えいせい)の血筋を遡っていくと、周王に仕えた非子(ひし)という人物にたどり着く。前900年頃(嬴政による中華統一の700年ほど前)、西方出身の非子は多くの良馬を生産して王室に納め、周(しゅう)王から「嬴(えい)」という姓と領地を賜った。これが今に伝わる秦国の起源である。

 まだ国とも言えない秦が歴史に名を刻むきっかけとなったのは、非子が生きた時代から100年ほど後に起きた大事件であった。

 周王朝は西方の異民族・犬戎(けんじゅう)に侵略され、王を殺害されて、前770年に滅びた。このとき、次代の王を護衛し、洛邑(らくゆう)に東周を建てるまで無事に守りきったのが、当時の秦の君主(襄公(じょうこう))だったのである。その功績によって秦は陝西省(せんせいしょう)の岐(き)に領土を拡げ、「諸侯」のひとりとして認められたのだ。

 のちに漢の首都となる長安(ちょうあん)(現在の西安(せいあん))を含んだ陝西省は、周王朝の発祥地であり黄河文明を生んだ場所でもある。そんな恵まれた地に封建された秦の君主は、先に名を馳せていた諸侯たちの末席に名を連ねた。しかし、もともと西の果ての出身である嬴の一族は、諸侯になったばかりの春秋時代の初め頃には、ほかの諸侯からは「文明度の低い蛮族」、秦という国家も「辺境の蛮国」と見なされていた。

 そんな秦の飛躍には、3人の重要人物が関わっている。覇者にまで上り詰めた9代目君主「穆公(ぼくこう)」、25代目君主・孝公(こうこう)の時代の「商鞅(しょうおう)」、そして始皇帝の曽祖父の28代目君主「昭王(しょうおう)」(昭襄王(しょうじょうおう))」である。