商売は人間のクズがやることだった…武士の国に資本主義を根付かせた新札の顔「渋沢栄一」の天才的発想

AI要約

渋沢栄一は日本近代資本主義の構築に貢献したが、それは当時難しい課題だった。

武士階級の朱子学による商売への偏見が渋沢に非難をもたらした。

渋沢は孔子の教えに基づいて商売の重要性を提唱し、新しい教育を必要とせずに資本主義を確立した。

新1万円札の顔となる渋沢栄一にはどんな功績があったのか。作家で歴史家の井沢元彦さんは「渋沢は日本近代資本主義を構築したと説明されるが、そうすることが当時不可能に近い難事であったことを忘れてはならない」という――。

 ※本稿は、井沢元彦『歴史・経済・文化の論点がわかる お金の日本史 完全版 和同開珎からバブル経済まで』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■商売人のイメージは「覚せい剤の密売人」

 渋沢栄一はなぜ官僚をやめ、実業家になろうと思ったのか?

 「お上」が指導するだけでは、決して近代資本主義社会は成立しないからである。そもそもヨーロッパはすべて民間主導である。自由主義経済というのはそういうものだ。だが元武士たちはそのことを理解せず、あまつさえ叩き込まれた朱子学によって「商売は人間のクズのやる悪事」と思い込んでいる。

 武士階級の出身者が多い新政府の役人も「商売を盛んにしないと国が豊かにならない」と頭では理解していたものの、やはり心の奥底で「商売は悪事」という偏見は持っている。だから渋沢は同僚から非難された。

 たとえばあなたの会社の同僚が「会社を辞めて覚醒剤の密売人になる」と言えば、「バカなことはやめろ」「頭がおかしくなったのか」と制止するだろう。それと同じ感覚である。これは決して大げさな言い方でないことは、本書の読者ならよくわかるだろう。また歴史書に書いてある「渋沢は日本近代資本主義を構築した」などという「一行」は事実ではあっても、そうすることが当時不可能に近い難事であったことを忘れてはならない。

 一体どうすればいいのか? 自分の頭で考えることがお好きならば、ここでいったん読むのをやめて考えていただきたい。ヒントは次頁の写真である。

■朱子学の功罪

 「商売は悪事」という偏見をもたらしているのは朱子学だから捨ててしまえばいい、と言うのは簡単だが、実際にはその朱子学がもたらした天皇への忠義が明治維新を成し遂げ「天皇の下での平等」も確立した。

 朱子学を完全に捨てることは難しい。もちろん朱子学を排除した新しい教育を始めるという手もなくはない、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』はそうした方向性を示してはいた。だが一刻も早く西洋諸国に追いつくためにすぐにでも資本主義を確立しなければいけないのに、それでは時間がかかりすぎる。

■渋沢の天才的発想

 そこで渋沢は考えた。

 歴史的に見れば朱子学とは儒教の一派で、儒教の開祖である孔子(こうし)の説を「発展」させたものと言われている。だから武士階級は朱子学を学ぶ前に孔子の教えを必ず学ばされる、それは武士階級にとっての常識である。ところが、英語では孔子の教え、つまり本来の儒教をConfucianism(直訳すれば「孔子主義」)と呼ぶのに対し、朱子学はNeo Confucianism(「新孔子主義」)と呼ぶ。両者は実際にはかなり違うものなのだ。

 百科事典などには小難しい理屈が書いてあるが、両者の違いは私に言わせれば「朱子学は本来の儒教に比べてヒステリック」なのである。なぜそうなったか、歴史的理由があるのだが、それを解説するには紙数が全く足りない。この点に興味のある方は『絶対に民主化しない中国の歴史』(KADOKAWA刊)を読んでいただきたい。

 ここでは要点だけ述べるが、孔子の儒教では「商売は人間のクズのやる悪事」などと決めつけておらず、それをヒステリックに叫んだのは朱子なのである。ならば儒教の根本である孔子の教えに戻ればいい。孔子の言行録である「論語」には「商売のすすめ」とも受け取れる言葉がたくさんある。肝心なことはこれなら元武士たちも抵抗なく受け入れられるし、新たな教育も必要ないということだ。まさに天才的発想である。