戦争は終わっても戦禍は続く…「日本兵1万人が行方不明」の硫黄島から「遺骨」を運んだ僕が思うこと

AI要約

硫黄島で日本兵1万人が消えた謎を解き明かすノンフィクションが話題。4度の上陸と機密文書の調査により、読者の感動を呼び起こす。

遺骨収集団の経験者が語る、硫黄島から本土への遺骨捧持の壮絶な体験。遺骨を抱えて滑走路を戦没者の帰還を見送る姿に感動が広がる。

自衛隊の配慮と儀礼を受け入れながら、遺骨を本土に返す過程に立ち会い、幽明の境のない硫黄島の歴史と尊厳を感じ取る。

戦争は終わっても戦禍は続く…「日本兵1万人が行方不明」の硫黄島から「遺骨」を運んだ僕が思うこと

 なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。

 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

 僕にとって人生二度目の遺骨収集団。今回は、初の役目を担うことになった。

 収容した遺骨を本土に帰す「捧持(ほうじ)」という役だった。

 2週間の捜索活動で発見された遺骨は、同行した専門員の鑑定で14体と判定された。遺骨は個体別に白い袋に納められ、宿舎の安置室に運ばれた。本土への帰還日が近づくと、遺骨は箱に納められ、骨箱を本土まで抱きかかえて運ぶ団員14人が選抜された。僕はその一人となった。

 託された骨箱は遺骨の重さを含めても1キログラムほど。近年、硫黄島で見つかる遺骨は小さな「骨片」が大半だ。風化の進行が捜索の壁になっている。実際に骨箱を持って感じたのは物理的な軽さではなく、戦後76年の歳月が意味する重さだった。

 島は現在、全域が自衛隊の管理下にある。収集団帰還日。輸送機が待機する滑走路付近には、制服姿の在島隊員が約200メートルにわたり整列した。団員によって輸送機に運ばれる戦没者遺骨に「ご苦労様でした」と言うように一斉に敬礼した。

 帰路の輸送機には団員だけでなく、骨箱の数だけ座席が用意された。戦没者にとっては七十数年ぶりの帰還だ。やがて迎えた離陸の時。安らかに帰れるようにと、団員たちは隣の席の骨箱に、優しい手つきでシートベルトを着け始めた。

 「ゴゴゴゴゴ」。収集団員29人と遺骨14体を乗せ、自衛隊輸送機は滑走路を走りだした。旅客機のような防音設備がないため、機内はもの凄い音だ。座席は地下鉄のように窓を背にした配置。離陸直前、高齢の遺児が窓を振り返り、手を振った。窓の向こうには誰の姿もない。本土ならば異常に見える行動も、この島では異常には見えない。今も幽明の境がない島なのだ。

 目的地である航空自衛隊入間基地(埼玉)まで約2時間40分。葬儀と同様に黒い背広姿の収集団一行は誰も会話しなかった。発掘現場から遺骨と一緒にバスで宿舎に戻る際もそうだった。捧持中は私語を禁じられているためだ。戦没者の尊厳を損なわないための配慮だった。

 そうした対応は、遺骨帰還に協力する自衛隊も同じだった。雨天下で入間基地の滑走路に降り立った際、出迎えたのは「帰還兵」が雨で濡れないように傘を手に待機していた隊員たちだった。儀杖隊がラッパで「悲しみの譜」を演奏し、敬意を表した。

 日が暮れる中、一行は厚労省が用意したバスに乗り、都内のホテルに向かった。前日まで過ごした島の夜は漆黒と呼べるほどの暗さだった。高層ビルが立ち並ぶ本土の夜景はまぶしかった。ある団員は、そんな景色を見せたいと膝の上の骨箱を車窓の高さまで抱え上げていた。僕もそれに倣った。日本の発展ぶりを見て帰還兵たちはきっと驚いたに違いないと、僕は思った。