現代人が縛られた「コスパ」という病…日本人が「仕事のための仕事」をしてしまう理由

AI要約

グレーバーは、なぜ「クソどうでもいい仕事」の方がエッセンシャルな仕事よりも高給なのかを考察している。

その背景には、近代経済学の人間観である「ホモエコノミクス」の影響があり、人間は最小の資源と労力で最大の利益を得る行動を選択するとされる。

この人間観は資本主義とともに浸透し、人間の欲望を無限とし、資源を最大限に利用する存在として定式化された。

現代人が縛られた「コスパ」という病…日本人が「仕事のための仕事」をしてしまう理由

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

わたしたちはあのパーソナルなプチ反乱の末に仕事を辞めた労働者階級出身のエリックのような人に遭遇したら、やっぱりなに悩んでるんだとなりそうですよね?どうして、そうおもってしまうんでしょうか?なぜ、なんにもしないで稼ぐことが苦痛であることなんてありえない、みんな率直にうれしいはずだ、と考えてしまうのでしょうか。

ここでグレーバーは、そのようなおもい込みの根拠を探ります。これはたんなる日常的常識の問題にとどまりません。それには「人間本性」、かんたんにいえば「人間はなにを求めて、どのように動くのか」、要するに「人間とはなにか」についての理論的基礎があるというのです。

それは経済学です。というか近代の経済学がその根をおいている「ホモエコノミクス」という人間観です。「経済人」とも訳されます。グレーバーによれば、あるいは近代経済学に対するもっとも手強い批判者である人類学者の多数によれば、「経済人」は近代資本主義社会の神話でしかありません。

それではそれは、どういう発想をとるのでしょう。「コスパ」という表現がここしばらく日本では流通してますよね。あの商品はこの商品より「コスパ」がいい、というとき、価格の割に性能がよいという割合が比較されるのですよね。あの寿司はうまいけど高い、この回る寿司はうまくて安い。このようなとき、回る寿司は「コスパ」がいいといわれます。これは「コストパフォーマンス」の略語ですが、かんたんにいうと、最小の支出で最大の利益をあげる可能性のことをいっています。

この文脈でいうと、人間は、コスパ計算にて生きるものなり、とわたしたちも考えています。つまり「人は放っておかれるならば、だれしも最小の資源と最小の労力の支出で、みずからの欲求するものを最大限に獲得できる行動を選択する」ものだ、とする人間観です。

もちろん、この「ホモエコノミクス」的人間観は、資本主義とともに浸透しますが、その文脈のひとつに、ヨーロッパでは、古代以来、人間は本性から貪欲で放っておけば無限の欲望をもつ、といった発想が一部では流布していたことがあります。あたりまえとおもうかもしれません。しかし、そういうふうに人間を考える文化は実はあまりみられないのです。

そんな人間のはてしない欲望に比較するならば資源は稀少で、人間は機会があれば、その欲望をみたすべく資源を最大限利用するものなのだ。資本主義の興隆にともなって、経済学はこのようにそのローカルな伝統を引き継いで定式化しました。