「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い

AI要約

姫路城の城下町姫路で栄える和菓子文化の代表格、玉椿にまつわる物語。

酒井家の姫路入府と発生した寛延大一揆、そして事件を引き起こす家老の運命。

定恒の忠義と、光彬・又内の策略に立ち向かう勇気に満ちた波乱の歴史。

「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い

あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

今回は、兵庫県姫路市の「和菓子」。国宝にして世界遺産の優美な姫路城天守をいただく城下町姫路。近世播磨の経済、文化における中心都市であり、ここでは茶の文化とともに、和菓子の文化も古くから栄えてきたという。その菓子のなかでも地域を代表する逸品が「玉椿(たまつばき)」である。この銘菓とともに語られる名家老の存在、そしてその家の数奇な歴史を追った。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】

昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】

「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。

白鷺城(はくろじょう)の別名でも知られる姫路城。その名の通り、白い翼を広げるかのような姿で訪れた者を魅了する。しかし、この城はただ美しいだけの存在ではない。西国における徳川幕府の要であり、代々、幕府重鎮の譜代大名が城主となってきた。

寛延2年(1749)、この城に入った酒井忠恭(ただずみ)もまた、老中首座を務めた人物である。しかし、その入府は当初より、波乱に満ちたものであった。ことに、一人の家老の存在が中心となって勃発する騒動が、世間を驚かすことになる。

徳川幕府の成立以来、姫路に転封となるまで、譜代大名・酒井家は上野国前橋(現在の群馬県前橋市)に居城を置き、忠恭で9代を数えた。しかし、利根川の治水に苦労するなど、経営が難しい地であるうえに、幕閣としての支出も多く、債務は膨らむ一方であり、財政は難しい局面を迎えていた。

その状況で画策されたのが、より豊かな地への領地替えであり、候補地として挙がったのが、姫路であった。要人への工作が実り、この国替えは幕府の承認を得るところとなる。

ところが、酒井家の姫路入府は最悪のタイミングとなった。前年の夏、大旱魃に襲われながらも前領主の松平氏は年貢を抑えず、民の不満が高まるなかで藩主が没した。藩政は動揺し、一部所領で農民の蜂起が始まる。さらに、年が明けて国替えが公表されると、借金の踏み倒しを恐れた民衆が各地で庄屋などを襲撃する。寛延大一揆である。

この一揆は寛延2年2月ごろに鎮静するが、これによって新藩士の移住が遅れ、ようやく始まったばかりの7月に台風が襲来。城下の船場川が氾濫して町に浸水し、死者・行方不明者は400名を超えた。8月にも再び台風が直撃し、このときには農地への被害に加えて3000名余の死者が出た。財政改善をめざした酒井家の計画は、完全に裏目に出てしまったのである。

これら一揆の後始末や災害に対処せざるをえなかったのは、先遣役として姫路に入った家老の川合定恒(さだつね)であった。定恒は水没した城下町の人々を独断で姫路城内に避難させ、備蓄米を被災者に提供するなど、領民の保護に尽くしたという。

しかし、災害対応が一段落ついた寛延4年(1751)7月、その定恒が、同格の国家老・本多光彬(みつあき)と江戸家老の犬塚又内(ゆうない)を自邸に招いたうえで、両名を斬り捨てて殺害。定恒も切腹するという事件を起こす。世を震撼させた「姫路騒動」である。

実は、姫路転封を画策した中心人物こそ、光彬と又内であり、秘密裡に進められたこの計画が内定して藩士一同に伝達されたときに、ひとり強く反発したのが定恒であった。

「前橋城は、権現様より拝領した際、『この城は江戸の守護として築かれた、二つとない城である。永代にわたって所替えなど願い出ることなく、幕府からも申し付けることはない』とのお言葉をいただいた城。これを捨てるのは不忠である」

というのが、彼の主張であり、藩主の忠恭にさえ、激しく意見したという。

家老・川合家は、もとは「河合」の姓を称して徳川家康に仕え、酒井家が家康の家臣から大名へと出世する際に、家康の命で付家老となったという経緯があった。いわば目付役である自分を出し抜いての、光彬たちの所業に対して、自身の立場を貫くという意志も事件の背後にあったのであろう。

事件後、川合家は断絶。跡継ぎで当時19歳の宗見(むねみ)は、母ら家族とともに叔父のもとに預けられることになる。