【井村屋・中島伸子会長の壮絶な体験~国鉄北陸トンネル列車火災事故】「人を大切にする」経営の原点

AI要約

井村屋・中島伸子会長は、北陸トンネル火災事故で生涯忘れられない体験をした。事故当時19歳の大学生で、列車内で母子と出会い、火災から子供を救出しようとしたが、大きな傷を負う。

母子を救おうとする中島会長の決意と苦悩、そして子供を見失い意識を失う過程を描いている。その後、目覚めた時には20歳の誕生日であった。

事故後、病室で自分の姿を見て驚く中島会長の姿を通じ、事故の深刻さと中島会長の勇気を伝えている。

【井村屋・中島伸子会長の壮絶な体験~国鉄北陸トンネル列車火災事故】「人を大切にする」経営の原点

 井村屋・中島伸子会長は、生涯忘れることができないある壮絶な体験をしている。

 北陸トンネル列車火災事故である。

 事故発生は日本国有鉄道(国鉄)時代の1972(昭和47)年11月6日の午前1時過ぎ。大阪発青森行きの「急行きたぐに」が北陸トンネルを走行中、食堂車から出火し、同列車は緊急停止した。その後トンネル内に煙が充満し、30人が死亡、714人が重軽傷を負った国鉄史上、最悪のトンネル事故の一つである。中島会長は当時、19歳の大学生であった。

 事故発生前、食堂車に隣接する車両に乗車し、ボックス席に座って、5歳、3歳、生後2カ月の赤ん坊を連れた母親と談笑していた。

 「この子は初めて祖父母に会うんですよ」。母親はうれしそうに話していた。

 その時である。突如、列車が停止し、食堂車が燃えているのが見えた。瞬く間に車内に煙が充満し、母親はこう言った。

 「3人の子どもを連れては生き延びることができません。お願いですから、長男だけは連れて逃げてほしい」

 だが、母子とは知り合ったばかり。

 「正直、この火の中で子どもを連れて逃げる自信がなくて一瞬迷いました。でも、母親は必死で、顔を見たら、すごく泣いていたんです。男の子は離れ離れになるのが嫌だったのでしょう。『お母さん、お母さん』とわんわん泣いていました。私は母親の泣き顔を見て決心しました。列車の窓を割って、その子を抱きかかえたまま、地上に飛び降りたんです。 

 ただ、その時、足を怪我してしまい、その間に子どもを見失ってしまいました。それから、子どもの名前を何度も何度も叫びましたが、しばらくすると一酸化炭素中毒で声が出なくなり、気を失ってしまいました」

 目覚めたのは2日後。中島会長の20歳の誕生日だった。残念ながら4人の母子は亡くなっていた。

 その後、病室に警察の人がやってきて「あなたに会ってほしい人がいる」と言われ、「はい」と言おうとしたら声が出なかった。口を開いたら煤の塊が出てきた。自分の顔を鏡で見たら、真っ黒で煤が肌に染みついていた。