中村哲さんが殺害された日、何が起こっていたのか…朝日新聞記者が命がけで迫った「犯人像」とアフガニスタン当局の「失態」

AI要約

アフガニスタン東部で用水路を掘り、緑の大地をよみがえらせた中村哲さんが武装集団に銃撃されるという事件が世間を衝撃に包んだ。事件を追跡した朝日新聞の取材報道が話題となり、事件の真相に迫っていく。

中村さんの脅威情報から始まり、アフガニスタンの治安情勢が悪化する中で取材活動を続ける記者の苦悩とリスクについて描かれる。事件の危険性が高まる中でも、事実を追求し続ける姿勢が示される。

事件の捜査が膠着状態に陥る中、記者がアフガニスタンでの取材活動についても綴られる。日々のリスクと緊張感の中で、真相解明を目指した行動が浮かび上がる。

中村哲さんが殺害された日、何が起こっていたのか…朝日新聞記者が命がけで迫った「犯人像」とアフガニスタン当局の「失態」

干ばつに見舞われたアフガニスタン東部で用水路を掘り、緑の大地をよみがえらせた中村哲さん。2019年12月に武装集団に銃撃され、殺害された事件は、世界中に衝撃を与えた。現地の治安は落ち着かず、事件の捜査は止まってしまったが、3年にわたる取材で実行犯を突き止めた朝日新聞の乗京真知記者の調査報道は、朝日新聞デジタルで掲載された当初から大きな反響を呼んだ。追跡取材の成果をまとめた書籍『中村哲さん殺害事件 実行犯の「遺言」』(朝日新聞出版)は、第46回講談社本田靖春ノンフィクション賞最終候補作にも選ばれている。取材を始めたきっかけや苦悩、そこから浮かんだ事件の構図とは、どのようなものだったのか。

中村さんの命が狙われているという脅威情報は、事件前から何度か発せられていた。事件の1年半ほど前、私が中村さんに連絡した時も、警戒を強めている様子がうかがえた。私が中村さんに対し、用水路事業について触れた記事を英文で配信していいかと尋ねると、中村さんは所属団体を通じて次のように答えた。

「現在、薄氷を踏む思いで事業を行っているので、英文の記事からは、(事業に関する記述を)削除してほしい」。安全確保に細心の注意を払いつつ、現場に踏みとどまる中村さんの覚悟が伝わってきた。

当時、アフガニスタンの治安情勢は、日を追うごとに悪くなっていた。国全体で1日70件ほどの自爆攻撃や戦闘が起き、外国人やビジネスマンを狙った誘拐も増えていた。特に危なかったのが、中村さんが活動する東部ジャララバードと、私が取材拠点を置く首都カブールだった。

私はカブールで主に二つの宿(SホテルとIホテル)に泊まっていた。Sホテルは、過去に2度銃撃事件が起きた教訓から、持ち物検査を厳しくし、情報機関員が敷地を巡回していた。Iホテルは、警備が緩いものの敷地が広いため、襲撃されても自力で脱出できる望みがあった。Iホテルではロビーや正面玄関を通らずに、1階の調理場から外に出る脱出ルートを考えた。真夜中でも迷わず動けるように、何度も歩いて建物の構造を覚えた。

結局どちらのホテルにいても気は休まらないのだが、どちらかには泊まらざるを得ない。標的となり得る外国要人が泊まっていないか、外交レセプションが予定されていないか、可能な限り調べ、リスクが低そうな方を選んだ。

実際に2018年1月にIホテルが襲撃された時、私は運良く別の取材地にいて難を逃れたのだが、後に分かって肝を冷やしたのは、襲撃犯たちが1階の調理場からホテル内に侵入していたということだった。私が脱出しやすいと感じるルートは、襲撃犯と鉢合わせしやすいルートでもあるということを、この時に学んだ。

宿泊ひとつ取ってもこのような状況なので、その頃アフガニスタンに入って定期的に取材していた日本人は、私が知る限り、私と共同通信特派員・現地通信員だけだった。言語も習わしも一様でなく、先輩から引き継いだ現地助手の助言が頼りだった。少しずつ人脈を広げ、一から所作を教えてもらった。

そうした取材環境に慣れてきたころに起きたのが、中村さんの事件だった。ガニ大統領は犯人逮捕を約束したが、捜査は初動からつまずき、会見は一度も開かれなかった。ほどなく主任捜査官は現場を離れ、首都に異動していった。警察は無関係の容疑者を中村さん事件に結びつけ、自らの手柄としてアピールした。