ブル中野、西村修に語った“絶望からの復活” 自身も肝硬変で闘病「本当に死んだら終わりだと」

AI要約

プロレスラーで文京区議会議員の西村修が食道がんステージ4を公表した際、ブル中野が激励する姿が描かれている。2人は30年の関係で、互いに「西村くん」「中野さん」と呼び合っている。中野自身も4年前に肝硬変と診断され、闘病中である。

中野は抗がん剤治療についての効果や副作用について話し、西村への応援を示している。一番つらいことはレスラーとしてのトレーニングができないことだと語っている。

2人の30年に及ぶ関係の始まりや初対面、若手時代のエピソードなどが紹介されており、中野が西村に対する優しさや尊敬の念が伝わる。

ブル中野、西村修に語った“絶望からの復活” 自身も肝硬変で闘病「本当に死んだら終わりだと」

 食道がんステージ4を公表したプロレスラーで文京区議会議員の西村修を“女帝”ブル中野が激励した。2人は1994年に米国で出会って以来、30年の関係で、互いに「西村くん」「中野さん」と呼び合う。また、中野も4年前に肝硬変と診断され、闘病中だ。WWE殿堂入りのリングと盾を携えて見舞いに来た中野に、西村は「元気をもらいました」と、がん撃退への思いを強くした。

 西村から症状について説明を受けた中野は、「抗がん剤を2回やって、2割ぐらい痛みがなくなったって言うから、もう効いているんだなと。全部で6回ですか。それが終わった後にどこまで効果があったかでまた治療の方法が変わってくるというから、そこまでとりあえず頑張ってくれればいいなと思います」と激励。

「抗がん剤ってすごく怖いイメージがあるじゃないですか。やせていっちゃってとか、髪の毛がなくなっちゃうとか。でもそういうのがまだ今はなかったので、ちょっと安心なんですけど、ただトレーニングできないっていうのは一番つらいと思うんですよ。持ち上げたりするのも痛いって言っているから、それが一番つらいだろうなと思っています」と、レスラーとしての練習ができない西村の胸中をおもんぱかった。

 2人の初対面は94年、場所はニューヨークだった。「94年かな。私、1番初めにニューヨークに行ったのは真夏だった。山崎五紀(現姓・永井)さんがニューヨークの日本レストランやっている方とご結婚されて、1人目の子どもが生まれたのが94年の7月。たぶん8月ぐらいに山崎さんの家で(西村と)会っています」

 全日本女子プロレスでダンプ松本との極悪同盟で大暴れ。アジャ・コング戦で見せた金網最上段からのギロチンドロップは今でも語り草だ。日本でトップレスラーとして幾多の伝説を築いた中野は、拠点を海外のWWF(現WWE)に移していた。

 一方、西村は新日本プロレスで行われた若手の登竜門「ヤングライオン杯」で準優勝。当時フロリダに住み、海外武者修行中だった。山崎とは93年にタイガー服部レフェリーの紹介で知り合っており、ちょうど遠征帰りでニューヨークに立ち寄っていた。

 その後、2人の関係はさらに深まる。中野がテネシーからニューヨークに引っ越すと、西村もニューヨークに移住。「オフの日の3日間、4日間は毎日みんなでご飯を食べていました。私は練習以外やることない。お金がないからランチだけ五紀さんのレストランでウエーターとしてバイトして、お昼ご飯を目いっぱい食べさせてもらっていました」(西村)。95年には北朝鮮で「平和の祭典」を成功させたアントニオ猪木が、国連の会議に出席するためニューヨーク入り。西村、中野は猪木と食事した翌日、セントラルパークで汗を流している。

 初期のころの互いの印象について聞くと、中野は「もうすっごい真面目な、今とは違う好青年でした」とニヤリ。

「本当に真面目でいつも練習ばかりしていましたね。新日本から来ているけれども、試合がいつもあるわけじゃない。会社にレールを敷かれて、ここに行けって言われて来てるわけじゃないから自分でいろんなところを探したりしていました。英語もすごくしゃべれたので、なんでも自分でやるんだなと驚きました。私の場合は、会社からWWFに行けって言われて行っている感じだったので、とにかく全く違う環境だったので、本当にすごいなと思っていましたね」

 西村は中野は羨望(せんぼう)の対象だったと明かす。

「悔しいんですけど、やっぱり、デカさと、大きさと。だって、こっちはズブズブのペーペーのただの若手の修行ですよ。でも、中野さんは女子のチャンピオンですからね」

 若手時代、西村はなかなか太れないことに悩んでいた。中野は現役当時115キロ。日本人として初めてWWF世界女子王座を獲得するなど、世界の頂点に君臨する姿は、男女の垣根を超えて強く焼き付いた。「どっちが偉いとか、そういうの関係なしに、本当にプロレスのプの字も分からない小僧だったのに、プロレス抜きにして親しくさせていただいたのは楽しい思い出でした」。名もなき若武者を受け入れてくれた中野の優しさに、西村は今でも感謝している。