楽天創設3年目 朝井秀樹は球団初の完投完封勝利を達成し〝主力〟となった【平成球界裏面史】

AI要約

平成13年に朝井秀樹投手が近鉄バファローズに入団し、3年後にオリックスとの合併により消滅したチームから楽天に移籍。苦境の楽天ではチャンスをつかみ、プロ野球での経験を積む。

楽天での成績が徐々に向上し、2年目にはローテーション入り。プロ6年目にして充実した成績を残し、プロ野球選手としてのキャリアを築く。

近鉄でプロ初勝利を挙げられなかったことを考えると、近鉄が存続していたらどうだったかという〝たられば〟もあるが、プロ野球選手としての成功を掴むことができた。

楽天創設3年目 朝井秀樹は球団初の完投完封勝利を達成し〝主力〟となった【平成球界裏面史】

【平成球界裏面史 近鉄編71】近鉄バファローズが最後のリーグ優勝を経験した平成13年(2001年)、ドラフト1位で朝井秀樹投手は猛牛の一員となった。それからわずか3年でチームはオリックスと合併し、消滅することとなった。ようやくプロの水に慣れてきた頃にすさまじい環境の変化を強いられてしまった。

 2年目までの選手は身分保障され、オリックスへ所属することが決まっていた。だが、朝井は3年目だった。若手選手にとって、その1年に何の違いがあるのか。2年目と3年目の線引きの意味は何なのか、当時はさまざまな議論も行われた。ただ、選手たちは決められたことに従うしか選択肢がなかった。

 近鉄が消滅することは決定事項だった。単純に親会社が近鉄を他の企業に売却するならシンプルな話なのだが、事情が複雑だった。わざわざ近鉄をつぶして新規参入球団を募るということが行われた。球界再編問題が大荒れのまま、平成16年(2004年)11月2日に楽天の新規参入が認められた。

 そして8日には新球団・楽天と近鉄、オリックスの合併チーム・オリックスバファローズによる分配ドラフトが行われた。オリックス、近鉄のFA宣言選手、任意引退、自由契約選手、外国人選手を除くメンバーから、まずはオリックスが25選手をプロテクト。その後、楽天とオリックスが交代で20人を指名し合うという方式で行われた。

 楽天には17人の投手と23人の野手が振り分けられた。その中の投手の一人が朝井だった。初代監督に就任した田尾安志は「お荷物にならないように頑張ります」と自虐的な本音を漏らしている。それほど、戦力的には厳しい状況だった。ただ、朝井にとっては戦力が手薄な楽天に分配されたからこそ、試合に出場するチャンスが生まれたというのも事実だった。

 近鉄時代の3年間は5試合で7回2/3を投げただけだったが、楽天1年目の平成17年(05年)には15試合に登板し先発で10度、起用され60イニングを消化した。5月26日の中日戦(ナゴヤドーム)では6回3失点でプロ初先発、初勝利。8月31日の日本ハム戦(フルキャスト宮城)では155球を投げ抜き、9回1失点でプロ初完投勝利を手にした。シーズン2勝(5敗)、防御率は6・00と高レベルの成績ではないものの、プロの一軍を存分に経験した。

 楽天2年目の平成18年(06年)は前年と同じ2勝(5敗)だったが防御率が3・93と大幅に改善された。そして平成19年(07年)は交流戦途中からローテーションに定着。8月1日のロッテ戦(千葉マリン)では9回3安打無失点と好投し、プロ初完投勝利を達成した。

 楽天にとって1―0での完封勝利は過去4度あったが、いずれも完封リレー。1人の投手が投げ切っての完投勝利は球団創設3年目で初という記録が残った。この試合で5勝目を挙げた朝井は最終的には31試合に登板し、17試合に先発。144回1/3を投げて規定投球回にも到達し8勝8敗、防御率3・12と堂々の成績を残した。

 プロ6年目にして朝井はローテ投手として立派な仕事を果たした。近鉄バファローズが存続していたとすればどうだったのだろうか。この類いの〝たられば〟など存在し得ない。ユニホームがどこであろうとプロ野球の1勝の価値は変わらない。だが、祖父が大の近鉄ファンだった朝井とあって、近鉄でのプロ初勝利ならなお良かったはずだと、ついつい考えてしまう。