【サッカー界から消えた「フェアプレー」は何色か】(2)大悪人が考案した「マーク」とFIFA運営の「レッド」、定着した「色のイメージ」

AI要約

ゼップ・ブラッターのキャリアとして、FIFAでの働きからフェアプレー運動の始まりまでを紹介。

ブラッターによるフェアプレー運動の取り組みやイニシアチブについて解説。

しかし、ブラッターの政権下でのFIFAの問題点やその後の展開にも触れている。

【サッカー界から消えた「フェアプレー」は何色か】(2)大悪人が考案した「マーク」とFIFA運営の「レッド」、定着した「色のイメージ」

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、黄色か、青か―。

 いまでは「スポーツ界の大悪人」の上位にランクされるほどの大物になったゼップ・ブラッターだが、1936年生まれのスイス人であり、ローザンヌ大学で経営学と経済学の学位を得たビジネスマンだった。スポーツ関連の広報や大会運営に力を発揮、1972年(ミュンヘン)オリンピックで実績を残したことで、1975年にFIFAにヘッドハンティングされた。39歳のときだった。

 最初は「テクニカルディレクター」として、FIFAがコカコーラのスポンサードを得て新しくつくる20歳以下の世界大会(ワールドユース)の事務方筆頭をつとめ、やがてジョアン・アベランジェ会長(ブラジル)の厚い信頼を受け、わずか5年後の1981年には「事務総長」に就任した。アベランジェ会長は通常はブラジルのリオデジャネイロで生活していたため、チューリヒのFIFA本部はブラッターが取り仕切るようになる。

 以後、FIFAの行事や大会では、常にフェアプレーがアピールされるようになる。キャンペーンのマークがつくられ、旗がつくられ、FIFA主催の試合では、この旗を先頭に両チームが入場する形が導入された。そして両チームの選手たちがレフェリーと相手の全選手と握手する試合前のセレモニーも定着した。

 最初のフェアプレーのマークを考案したのは、ブラッター自身だった。彼はレフェリーが「警告」を出すときに使う「イエローカード」こそ、フェアプレーを求めるものであると考え、黄色いカードに「フェアプレー・プリーズ」というキャッチフレーズを入れたマークをつくり出したのである。

 後に人が左足を上げながらボールを扱うマーク(「F」を形作った)がつくられ、キャッチフレーズも少しずつ変わっていくが、ベースが「黄色」であることは変わらなかった。

 ブラッターは「アベランジェ政権」の陰の最高権力者として実力を蓄え、1998年にはアベランジェの後継者として会長選に打って出て当選する。その会長選挙のどこに「フェアプレー」があったのか、笑ってしまうほどであり、その後のFIFA運営は「イエローカード」どころか「レッドカード」を出されるようなものとなっていった。

「1日に50の新しいアイデアを思いつき、そのうち51がクソだ」―。英国のジャーナリスト、ブライアン・グランビルは、後にブラッターをこうこきおろしたが、「フェアプレー・キャンペーン」だけは評価していいのではないかと、私は思っている。