“失明の危機”で引退を決意「ボクシングで命を落とすこともある。怖い。でもね」大和田正春を再びリングに戻した赤井英和からの映画オファー

AI要約

1985年2月5日、関西で絶大な人気を誇った『浪速のロッキー』こと赤井英和は衝撃のKO負けを喫し、重傷を負う。大和田正春は2連続KO負けを経験し、評価を落とすも再起を果たす。1986年、日本王座を獲得し、ボクサーとしての道を歩み続ける。

“失明の危機”で引退を決意「ボクシングで命を落とすこともある。怖い。でもね」大和田正春を再びリングに戻した赤井英和からの映画オファー

 1985年2月5日、関西で絶大な人気を誇った『浪速のロッキー』こと赤井英和は衝撃のKO負けを喫し、さらに生死をさまよう重傷を負った。咬ませ犬とも揶揄された大和田正春は下馬票を覆す大金星を挙げたわけだが、その後のボクシング人生は波瀾万丈だった。あれから39年、63歳となった本人の元を訪ねた。【NumberWebノンフィクション全3回の最終回】

 番狂わせを起こした赤井英和戦の4カ月後、ノーランカーの飛鳥良にまさかの黒星を喫した大和田正春は、一時、引退を考えた。それでも、育ての親である伯母・久子さんの一喝もあり、再びボクサーとしての道を歩み始めた。

 覚悟を新たにした7カ月ぶりの再起戦。「負けたままでは結婚できない」と、赤井戦の前から交際していた恵美子さんと将来の約束までかわしていた。しかし、1986年1月27日、日本ウェルター級2位の木村栄治にKO負け。しかも92秒で決着するという派手な結末に、後楽園ホールは沸き上がった。赤井を倒した男は、引き立て役になってしまった。

「いやー、あそこで負けちゃって……。でもね、辞めようとは思わなかった。もう一人の自分が言うんですよ。『お前はまだ何も力を出してない。こんなんで辞められないだろ』って」

 スポットライトが当たる大阪府立体育館で『浪速のロッキー』を倒してから2連続KO負け。専門誌のボクシングマガジンには『またガラスの顎』と報じられるなど、すっかり評価を落としてしまった。これで戦績は9勝10敗1分け。本当のリスタートは負け越してからだった。木村戦後に入籍を済ませ、心に誓う。

「俺と結婚した人に一度くらい『チャンピオンの奥さんだよ』と周りに言ってもらえるように頑張ろうと。絶対にチャンピオンになるんだと思ったのも、このときが初めてだったかもしれないです」

 時代は1980年代。中量級の世界王座は、夢のまた夢だった。視野に入れていたのは日本王座。すると、間もなくしてチャンスが巡ってくる。ネームバリューがありながらも、簡単に倒せる相手と思われたのかもしれない。1986年3月24日、日本ミドル級王者の無限川坂とのノンタイトルマッチには、2000人を超す観客が後楽園ホールに詰めかけた。

 話題性と興行の規模こそ違ったものの、いつかと同じようなシチュエーションである。会場が騒然となったのは4回。1年前に壊れかけた右の拳を振り下ろし、衝撃のKO勝ち。一度消えかけた男は見事な復活劇を遂げたのだ。そして、日本ミドル級1位の挑戦者として迎えた5カ月後のリターンマッチでも10回3-0の判定勝ち。王者の無限に引導を渡し、念願の日本タイトルを奪取する。判定負けでプロキャリアをスタートさせ、何度も浮き沈みを繰り返しつつプロ7年目で初めて腰にベルトを巻いた。

「あのときはうれしかったなあ。俺がチャンピオンになったんだ、本当になれたんだという感じでした。デビュー当初の頃は、とても自分がなれる気がしなかったから」

 その1カ月後には、福岡の博多でベルトを取るよりも難しいとも言われる初防衛戦をKO勝ちでクリア。がむしゃらに向かってきた丸尾正をキャンバスに沈め、幸先よくチャンピオンロードの第一歩を踏み出したように見えたが、人知れず深刻なダメージを負っていたのだ。