8大会連続へ「サッカーW杯出場」のハードルは上がったのか(2)フランス大会「棄権」、五輪&W杯「新ルール」とイングランド大会の「大問題」

AI要約

サッカーの歴史におけるアジア各国のワールドカップ出場に関する詳細なエピソード。

アジアのチームが歴史的な出場機会を得る過程における政治的な障害や争い。

時代ごとに変わる出場資格や予選形式におけるアジア諸国の苦闘。

8大会連続へ「サッカーW杯出場」のハードルは上がったのか(2)フランス大会「棄権」、五輪&W杯「新ルール」とイングランド大会の「大問題」

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、8.333…枠に入る確率。

 続く1938年フランス大会には、アジアから日本とオランダ領東インド(現在のインドネシア)の2チームがエントリー。1936年のベルリン・オリンピックで優勝候補のスウェーデンを破り、ベスト8に進出した日本は、初出場の可能性が濃厚だったが、前年7月に始まった日中戦争の激化により予選出場を棄権し、最終的にオランダ領東インドは予選を戦わずに出場権を得た。

 第二次大戦後、1950年にブラジルで再開されたワールドカップ。日本はこの大会直前までFIFAから除名されており、アジアからは6か国がエントリー、4か国が棄権、「近東」という区分で欧州予選に入れられたイスラエルとシリアは敗退した。

 1954年スイス大会で、日本は初めて「アジア予選」を戦う。南ベトナムとインドはエントリーに遅れて予選出場を認められず、台湾は棄権、残ったのは日本と韓国だけになってしまった。「最初の予選」にして「最終予選」である。韓国がまだ日本人の入国を認めていなかったため、試合は2試合とも東京で行われ、第1戦1-5、第2戦2-2。韓国は予選を勝ち抜いてワールドカップに出場したアジアで最初のチームとなった。

 AFC設立は1954年。1916年に設立された南米サッカー連盟(CONMEBOL)に次ぐ、FIFA内部で2番目の地域連盟だった。しかし、その後もAFCはワールドカップ予選には関与することができず、アジア単独での出場権は与えられずに、予選はFIFA主導、FIFAの考えによって進められた。

「ワールドカップに出場した選手はオリンピックに出場できない」というルールができたため、オリンピックを優先させた日本は1958年スウェーデン大会にはエントリーせず、1962年チリ大会予選にはエントリーしたものの、韓国に連敗して敗退。このときにはアジア予選の勝者とユーゴスラビアが対戦して出場国を決めることになっており、韓国に5-1、3-1で連勝したユーゴスラビアが楽々と出場を決めた。

 大きな問題が起きたのは1966年イングランド大会だった。「アフリカの年」と呼ばれた1960年に18の新しい国が誕生。1962年大会のエントリーが6か国に過ぎなかったアフリカから、4年後のこの大会には、17もの国がエントリーしたのだ。アジアのエントリーはわずか3か国だったが、FIFAがアジアとアフリカ、そしてオセアニアを合わせて「1枠」としたことにアフリカ諸国から大きな反発が起こり、アフリカの大半のチームが予選出場をボイコット。南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離)政策のためにFIFAの会員資格を停止され、アジアの棄権も続き、結局、北朝鮮とオーストラリアだけが残った。

 FIFAはこの「最終予選」2試合を1965年4月に東京で行うことを決めたが、日本側との日程調整が整わず、結局カンボジアのプノンペンで行うことになり、北朝鮮が6-1、3―1で連勝して初出場を決めた。1966年イングランド大会での北朝鮮の活躍はよく知られている。