“稀代のドリブラー”三笘薫の軌跡を辿る…来季は新生ブライトン&日本代表のエースへ

AI要約

三笘薫は東京五輪出場を経てプレミアリーグで活躍し、自らの成長とチームへの貢献を目指して難しい状況に直面する覚悟を示す。

川崎フロンターレのアカデミーや大学での経験が彼のサッカー人生を形作り、地道な努力から世界基準のプレーヤーへと成長してきた過程が紹介されている。

プロ入り後の急成長やブレイクを経て、三笘薫は持ち前のドリブル技術を生かしてJリーグでの成功を収め、海外移籍も果たすなど、将来への可能性を感じさせる存在となっている。

“稀代のドリブラー”三笘薫の軌跡を辿る…来季は新生ブライトン&日本代表のエースへ

「東京五輪に出て、海外へ行って、プレミアリーグに行って、いい時期にワールドカップもあって、自分はすごく運がいいなと感じています。ただ、次(2026年北中米W杯まで)の3年半はより難しくなる。代表は移動や連戦もあるので、メンタルのところだったり、チームがうまくいかない中で打開する力が求められてくる。クラブ以上に負荷が高くなると思いますし、過酷な環境の中でクラブと両立させられるタフさが必要になる。それを身に着けたいですね」

 2002年のカタールW杯を経て、第2次森保ジャパンが始動した2023年3月。三笘薫は日本の主軸として新チームをけん引していく強い覚悟を口にした。その時点ではまだプレミアリーグ参戦1年目だったが、世界を震撼させるほどの突出した存在感を見せ、一世を風靡していた。本人も自らの立ち位置を自覚していたはず。その後も順調に右肩上がりの成長曲線を辿っていくと思われていた。だが、そこからの1年3カ月は予期せぬケガの連鎖に苦しみ、長期間ピッチを離れることになった。23-24シーズンはプレミア19試合出場3ゴールにとどまり、代表も1年間で4試合に出場しただけ。長い足踏み状態には本人も悔しさと焦燥感を覚えたはずだ。

 それでも、27歳の稀代のドリブラーの本領発揮はここからが本番。三笘には多少の困難に直面しても乗り越えられるだけのインテリジェンスと粘り強さがある。彼はその能力をこれまでのサッカーキャリアの中でじっくりと養ってきたのである。

 日本屈指のアタッカーにとって、最初の飛躍の場となったのが、川崎フロンターレのアカデミー。特に1つ上に板倉滉、三好康児、1つ下に田中碧といったタレントがひしめく中、常に「世界基準」や「自分のストロング」と向き合い続けてきたのだ。U-12時代に指導した髙﨑康嗣監督は「いつでも・どこでも・誰とでも・自分の力を出せるのがいい選手」と常日頃から口を酸っぱくして言い続け、意識向上を促していたという。

「自分が指導した川崎ジュニアの中で、薫のポテンシャルは頭抜けていました。でも彼は成長が遅くて、小6の時点で150センチくらいしかなく、中学まではかなり小さかった。フィジカルコンタクトの部分では苦労したと思いますが、『間合いゼロ』『敵とぶつかって痛いと思わなかったら守備じゃない』『パスばっかりじゃダメ』と本当にいろんなことを要求し、視座を引き上げていきました」

 周囲のアプローチが奏功し、選手として順調な成長を見せていったが、ユース年代でメンタル的な課題にぶつかった。当時の三笘にはやや人見知りな一面があり、自分に自信が持てない部分も散見されたという。クラブ側からはトップ昇格を打診されたが、本人は固辞。「じっくり時間をかけて心身両面を鍛え上げた方が自分にとってはいい」と慎重なスタンスを貫き、筑波大学進学を決断した。恩師である小井戸正亮監督は大学4年間の三笘をこう語る。

「本人は『フィジカル的に通用しない』と考えて大学に来たようですが、『同時に勉強もしっかりやったうえで、サッカーに取り組みたい』という意思を示していました。同期の推薦入学の選手は山川哲史(現ヴィッセル神戸)ら5~6人がいましたが、みんな総じて学習意欲が高く、それに触発されたところはあったと思います。『人生の選択肢を広げておこう』と教員免許取得にも乗り出し、単位は取り終えましたね。卒業論文は『サッカーの1対1場面における攻撃側の情報処理に関する研究』。ドリブルを仕掛ける選手の視線の位置や角度などが人によってどう違うかを分析するため、20人の選手の頭に小型カメラをつけ、データを蓄積。自分なりに突き詰めたと思います。その研究と並行して三笘は自らの1対1の練習を徹底的に繰り返し、スキルを習得しようとしていた。研究と実践の両方があって、世界をキリキリ舞いする高度なドリブル技術が身に着いたんだと思います」

 こういった地道な積み重ねが2020年に加わった川崎Fで一気に出る。プロ入り当初は「自分は体力面や守備に不安があるので、早くそこを克服してコンスタンに試合に出られるようになりたい」と謙虚な口ぶりを見せていたが、新型コロナによる中断明けから急激にブレイク。主にスーパーサブとして勝負を決定づける大仕事を繰り返し、川崎FのJ1・天皇杯の2冠達成の原動力になったのだ。

 続く2021年も「三笘のドリブルは手が付けられない」「誰も止められない」などと特別視され、どこから見てもJリーグ最高峰プレーヤー以外の何物でもなかった。ご存じの通り、同年夏に彼はブライトンに完全移籍し、そこからベルギー1部のユニオン・サン・ジロワーズにレンタルされたが、「半年しかプレーしていない三笘がMVPでいいのではないか」という声も関係者から聞かれたほどだった。