好き嫌いが分かれた『DAISUKI!』。中山秀征がテレビタレントとして歩んだ40年

AI要約

中山秀征は苦難を乗り越え、芸能界で活躍する人気タレントとして成功を収めた。デビュー後、コンビとしての活動が振るわなくなり、番手を下げる状況に直面するも、諦めずに努力を続けた。

レポーターから始まり、徐々にMCやパネラーとしての仕事を増やし、地道な努力によって次第にメインの仕事を得るようになった。彼の道は決して順風満帆ではなかったが、地道な努力が彼を成功へと導いた。

現在は人気番組『DAISUKI!』でMCを務める中山秀征は、多くの苦難や挫折を経てここに至った。彼の人生や芸能活動は、単なる成功譚ではなく、努力と粘り強さが大きな要素となっている。

好き嫌いが分かれた『DAISUKI!』。中山秀征がテレビタレントとして歩んだ40年

中山秀征、通称“ヒデちゃん”である。この人に関しては、たぶんそれ以上の説明はとくに必要ではないのかもしれない。

子どもからお年寄りまで、この顔を見れば「ああ!」となる認知ぶり。笑顔と口達者・芸達者ぶりとで、長年にわたり芸能界の第一線で活躍し、情報番組でもクイズ番組でもそつなくこなすMC……なのは確かだが、じつは人生を左右するような土壇場から小石を一つひとつ積み上げて登ってきた場所だったと知ると、多くの方は驚かれるかもしれない。

順風満帆に見えるが、実際は「修羅な道」だったと明かす、その芸能生活をニュースクランチ編集部が聞いた。

◇デビューして3年で“ブレイク”と“もう古い”を体験

ヒデちゃんこと中山秀征は、群馬県藤岡市からデビューも決まっていない中学時代に上京。1984年、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に所属。会社が新たに立ち上げた「第3セクションお笑い班」の一員だった。

「僕自身は第二の吉川晃司を目指して東京に来たんですけど、たどり着いたのは“新しいお笑いを作ること”を志した部門。そこにはホンジャマカの石ちゃんとか、作家志望で三谷幸喜さんなんかがいて、そもそも僕は志してないんですけど、藁にもすがる思いだったんですね(笑)。

お笑いの“てにをは”も“いろは”もわからないところに、ニッポン放送のアナウンサーさんが来て“しゃべり”を、フジテレビの『オレたちひょうきん族』のディレクターだったゲーハー佐藤(佐藤義和)さんがネタづくりを教えに来てくれて、あとはダンスと歌とフリートークのレッスン」

合宿免許のような状況でお笑いを学び、それでも18歳になる年の春に「ABブラザーズ」としてデビュー。いきなり平日昼帯、『笑っていいとも!』の直後に放送されていた『ライオンのいただきます』のアシスタントを務め、女子中高生の人気を得て、当時の最年少で『オールナイトニッポン』のパーソナリティにも抜擢。

「テレビの影響力の凄まじさを、身にしみて知りました。国立市の寮からスタジオまで電車で通っていたんですが、テレビに出た日を境に、その車両は全部、僕らのファンの女の子っていう状況になったこともありました。そんな感じでデビューから3年ぐらいはワーっていったんですよ」

しかし、その3年で人気にかげりが見え始めたという。

「当時、東京のお笑いの世界では、少し前にとんねるずが一気にブレイクしていました。そのあとに僕らがいたんですけど、お笑い第3世代にドンドン抜かれていくわけですよ。西からダウンタウン、東からはウッチャンナンチャン、B21スペシャル。

TBSの『お笑いベストヒット』っていうランキング番組で第3世代と共演して、思い知りました。僕らテレビタレントのコンビなんで、そもそもネタづくりなんかしてないところに、真の“新しい笑い”が来て、みるみるうちにお客さんの目を奪っていったんです……」

「どうしよう、どうしよう」と焦りだけが募り、新しいネタをつくろうと画策していたとき、当時のマネージャーに引導を渡された。

「“中山、もうコンビとしては負けを認めろ。お前がそこで戦う必要はない”って。もともと僕は歌やドラマ志望だったので、“バラエティーをやれば、お前のやりたかったことができるはずだ”と。

僕たちABブラザーズは、そうやって第3世代の波に飲み込まれて完全に消滅していくんですが、そこがもう土壇場でした。“お前はもう古い”って言われたのが20~21歳ごろだったわけですから」

◇ダウンタウン、ウンナンと戦わない生き残り方

ちなみに、俳優・中山秀征の初主演作は、1985年の10月期に放送された『ハーフポテトな俺たち』。当時18歳だった彼のリアルタイムを描いたかのような、10代のやるせない日常と恋を描いた佳作だ。その後、立て続けに2作で主演。

「お笑いの道がふさがりかけていたタイミングで、“じゃあドラマに戻ろう!”と試みたんですが、タレント活動が忙しくてお断りしているうちに、どんどん“番手”が下がってしまっていたんです。

さあ、“本腰入れてドラマをやるぞ!”と思っても、5番手ぐらい。でも諦めませんでした。マネジャーと一緒に“ここから上がっていって、絶対、主演に戻ろう!”って言い合って。番手の下がった役を受けて、そこから連ドラの主役に返り咲くのが、だいぶあとになってから、それが『静かなるドン』でした」

中山が27歳のときだ。ただ、そこに至るまでのタレント業での努力と苦労の積み重ねは半端なかった。コンビでの負けを認めた中山が、まず得た仕事は地方局のレポーター。にわかに信じがたいが、彼にもそんな時代があったのだ。そして、そこから劇的なV字回復を見せた、わけではない。

「レポーターで評価されるとスタジオに呼ばれる。そこでV振りをすることができる。それが“いいね”ってなると、パネラーで置いてもらえるようになる。そこで使いやすい気の利いたコメントをすると、今度はMCのアシストをするようになり、うまくMCを引き立てると、そこでようやく自分がメインになる……っていう。

とにかく一つひとつの仕事を一所懸命やって結果を出す、ということしかなかったんです。毎回毎回が土壇場。そうして、どうにかこうにかABブラザーズ解散の頃には1本しかなかったレギュラーが、25歳のときには14本になったんです」

あのとき、第3世代と真っ向勝負をしなかったことが、逃げたと言われるかもしれないけど(笑)、生き残れた理由かもしれないと当時を振り返る。そして、現在の“ヒデちゃん”へとつながることを決定づける番組が生まれた。

『DAISUKI!』である。