見たことない…刻まれていたのは旧幕府軍の戦死者名 歴史研究家も驚く碑が栃木県にあった 「後世に残そう」つながる先人たちの思い

AI要約

戊辰戦争で敗れた旧幕府軍の戦死者34人を弔う碑が栃木県壬生町安塚に建てられた。安塚の戦いでの背景や建立の経緯、名前解明のプロセスが詳細に描かれている。

遺体を埋葬し、新政府軍の遺体を墓に葬ることが行われた安塚の戦いでは、戊辰戦争における慰霊と歴史的背景が明らかにされた。

軽い身分の兵士が多数含まれる碑には、伝習歩兵として雇用された江戸市中の人々の名前も刻まれており、数多くの人々の寄付によって碑の保存が継続されている。

見たことない…刻まれていたのは旧幕府軍の戦死者名 歴史研究家も驚く碑が栃木県にあった 「後世に残そう」つながる先人たちの思い

 戊辰戦争で敗れた旧幕府軍の戦死者34人を弔った碑が、栃木県壬生町安塚にある。歴史研究家の大嶽浩良(おおたけひろよし)さん(79)=宇都宮市=が昨年ここを訪れた時、ある事実に驚いた。「34人の名前が刻まれた碑が建っている。旧幕府軍の戦死者の名前を記した碑は見たことがない」。下野新聞「あなた発 とちぎ特命取材班(あなとち)」の記者が経緯を探った。

 現地は、宇都宮市と壬生町の境界を流れる姿川付近。大嶽さんによると、この一帯で1868年に「安塚の戦い」が繰り広げられた。新政府軍と旧幕府軍が豪雨と深い霧の中、約4時間にわたって交戦したと伝えられる。

 勝てば官軍、負ければ賊軍-。新政府軍の遺体は墓が建てられ手厚く葬られた一方、旧幕府軍の遺体は野ざらし状態だった。見かねた地元住民が新政府の許可を得て旧幕府軍の遺体を埋葬したという。80年、地元有志たちが改葬し、34人を悼む碑を建てた。

 では、34人の名前が刻まれた碑はいつ建てられたのか。地元住民によると、2014~15年にかけて行われた地元の安塚一自治会などによる碑の保存事業に合わせ、建てられた。

 碑には「結合 ヒストリアン倉金信正」の文字があった。この人が調査に関わったのかもしれない。同自治会長の有働修一(うどうしゅういち)さん(68)に照会してもらったところ、名前を調べ上げたのは住民の倉金信正(くらがねのぶまさ)さん(86)と分かった。

 倉金さんは「碑を風化させず、後世に残そうとした当時の自治会長に協力できないか」と考えたという。幕末維新に関わる死者が記された「幕末維新全殉難者名鑑」など数多くの資料を手がかりに、約3カ月かけて34人の名前を解明。同年、同自治会によって氏名を刻んだ新たな碑が建てられた。大嶽さんは「20数年前に戊辰戦争の調査で全国を歩いた際、旧幕府軍の戦死者名を記した碑はどこにもなかった」と驚く。

 また注目すべきは、34人のうち大半が軽い身分の兵士だったことだ。27人が「亀吉」「小八」など名字を持っていない。戊辰戦争に詳しい東京大名誉教授保谷徹(ほうやとおる)さん(67)によると、旧幕府軍の兵士としては最も軽い身分で「伝習歩兵」と呼ばれ、多くが江戸市中で雇用されたという。保谷さんは「賊軍とされた旧幕兵は多くの戦場で埋葬や慰霊のあり方が問題になった。歩兵を弔って碑を建てた先人たちの思いをこれからも大切にしてほしい」。

 碑の保存事業に際しては百以上の団体、個人から寄付が寄せられた。26日は住民たちが碑の清掃活動に汗を流した。有働さんは「無縁仏となった人々を思い先人たちがまつってきた碑を末永く維持していきたい」と気持ちを新たにしていた。

 【戊辰戦争】薩摩・長州藩などを中心とする新政府と旧幕府勢力の内戦。徳川幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還後に起きた。初戦となった1868年1月の鳥羽伏見の戦い(京都)から、江戸城無血開城や対抗する東北諸藩との戦いを経て、69年5月の箱館戦争(北海道)で新政府軍が勝利するまでの一連の戦いを指す。県内でも小山、壬生、宇都宮などで激戦が展開された。