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「艦砲ぬ喰え残さー」めぐる家族の物語【沖縄・慰霊の日企画】#あなたの623
沖縄民謡「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歴史と家族の物語を通して戦後の苦難と希望を描いた記事。
戦後沖縄民謡を代表する曲「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を通じて生き残りたひとの苦悩や家族の再生を紹介。
曲の歌詞を通して、戦争の悲劇と再生への希望を描写した家族の物語。
戦後に生まれた沖縄民謡「艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽうぬくぇーぬくさー)」。沖縄では、中高年の年代層でこの唄を知らない者はおそらくいない、戦後沖縄民謡を代表する曲と言える。シリーズ4作目は、この唄をめぐる家族の物語をお伝えする。
▽▽▽「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌詞・訳詞はギャラリーページから▽▽▽
■沖縄戦の生き残りは皆、「艦砲射撃の喰い残し」
1枚の家族写真。三線を構えてポーズをとる男性は、比嘉恒敏(ひが・こうびん)さん。
彼は、民謡グループを結成した娘たちのために、ある曲を書いた。
▽「でいご娘」島袋艶子さん
「あれはもう父の自分史みたいな感じで」「今まで封印したのを、もう解いたって感じで」
♪家ん元祖ん 親兄弟ん 艦砲射撃ぬ的になてぃ
「家も肉親も艦砲射撃の的になってしまった」
沖縄の戦後を軽快なテンポにのせて歌う「艦砲ぬ喰ぇ残さー」。
♪うんじゅん 我んにん いゃーん 我んにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー
(でいご娘「カンポ―ぬ喰ぇー残さー」)
米軍の猛烈な攻撃にさらされた沖縄で生き残った人は、「みんな艦砲の喰い残し」。この曲は、恒敏さんと家族が歩んだ戦後史でもある。
恒敏さんの長女、島袋艶子さん(77)は、沖縄本島中部の北谷町で区長をしながら、民謡グループ「でいご娘」の活動を続けている。
艶子さんが生まれる前、読谷から大阪に出稼ぎに出ていた父・恒敏さんは、戦争で家族5人を亡くしていた。
▽でいご娘 島袋艶子さん
「(戦況が)ひどくなるので沖縄の方が。それで呼び寄せたら、対馬丸に乗っていて撃沈されて。また大阪では、空襲で奥さんと息子を亡くして、最初の家族はね、全部亡くなったっていうことで」
戦後、沖縄に戻り、再婚して7人の子どもに恵まれた恒敏さん。
▽でいご娘 島袋艶子さん
「最初の家族はああいう形で失ってるのでね、やっぱりなおさら私たちのことをすごく大事にして。娘たちと一緒に歌ったり、踊ったり、それがすごい一番大好き」
時計修理を請け負いながら、その一方で4人の娘に歌や踊りを教え、民謡グループ「でいご娘」を結成。
▽でいご娘 島袋艶子さん
「こういう子どもたちが歌ったり踊ったりっていうのはあんまりいなくて、だからやんばるからもう南部まで引っ張りだこでした」
♪サー君は野中のいばらの花か~ サー ゆいゆい
【映像】第9回 新春民謡紅白歌合戦/琉球放送・1970年
テレビにも出演するなど、でいご娘が人気者になる中で、恒敏さんが作った歌が「艦砲ぬ喰ぇー残さー」だった。
♪泥ぬ中から 立ち上がてぃ
家内むとぅみてぃ 妻とぅめーてぃ
3番の歌詞には、次々と生まれる子どもたちの笑い声に心を落ち着かせる情景が描かれている。
♪哀りぬ中にん童ん達が
笑い声聞ち 肝とぅめーてぃ
▽でいご娘 島袋艶子さん
「母と結婚した、子どもたちもいっぱいできて食べるのもあんまりないんだけれども、でもみんな幸せ。一番それが絶頂のときに作った歌なんですよ」
恒敏さんのノートからは、歌詞の推敲を重ねた様子がうかがえる。歌を締めくくる5番の歌詞。
「我が親喰らったあの戦。我が島喰らったあの艦砲。生まれ変わったとて忘れるか。誰があのざまを始めた」
強い憤りの言葉のあと、「また戦争がないように世界の人々と友達になろう」と続けた恒敏さん。納得がいかなかったのか、歌詞を二重線で消し、その隣に、こう書き直していた。
「恨んでも悔やんでも飽き足らない、子孫末代遺言しよう」