貴闘力「屋号『ドラゴ』は、貴乃花親方の発案なんですよ」相撲協会を解雇された後に焼肉店をオープン、次に見据える大きな展望

AI要約

貴闘力は相撲界で活躍し、敢闘賞10回、殊勲賞3回を受賞した三役力士であり、小柄ながらファイト溢れる相撲で知られていた。

引退後は年寄・大嶽を襲名し、後進の指導に当たったが、相撲協会を去る決断を下した。

貴乃花親方とともに協会の改革に取り組んでいたが、野球賭博事件の影響で処分を受けることとなった。

貴闘力「屋号『ドラゴ』は、貴乃花親方の発案なんですよ」相撲協会を解雇された後に焼肉店をオープン、次に見据える大きな展望

 元関脇・貴闘力。大関・貴ノ花に憧れて、15歳で藤島部屋(当時、のち二子山部屋)に入門。1983年3月場所、初土俵。90年の新入幕は、曙、若花田(のち若乃花)と同時昇進だった。180センチ、150キロの小柄な体ながら、ファイト溢れる相撲で、殊勲賞3回、敢闘賞10回、技能賞1回を受賞、2000年3月場所では、平幕優勝を果たした。02年9月場所で引退後は、年寄・大嶽を襲名し、後進の指導にあたっていたが、10年7月、相撲協会を去る。10年10月にオープンさせた東京・江東区の「焼肉ドラゴ」で、その波乱の人生を語ってもらった。【第5回/全5回】

 貴闘力は、大鵬親方の三女・美絵子さんとの結婚後の94年春場所には、曙、同じ二子山部屋の貴ノ浪の3人による優勝決定戦に進出。惜しくも優勝は逃したものの、翌場所は「曙キラー」ぶりを発揮し、曙を撃破して敢闘賞を受賞するなど、活躍が続いた。

 引退するまで受賞した三賞は、敢闘賞10回、殊勲賞3回。敢闘賞10回は、歴代力士の中で最多となる。

「三役で好成績が続いた時は、『大関候補』と言われた時もあったんですよ(笑)。でも、オレの得意は押し相撲で、調子の波があるから、大関は掴みきれなかった。“もっと本気で取り組めばよかった……”と引退してから思ってもダメなんだけどね」

 と、悔しさを口にする貴闘力。

 00年春場所の初優勝で、「燃え尽きた。もう、いつ引退してもいい」と感じたことも、後悔していると言う。

 翌01年、十両に番付を下げて、02年5月からは、十両が定位置になった。こうして迎えた9月の秋場所は、十両11枚目で初日から4連敗するなど、苦戦が続いていた。12日目は、同じく負け越している39歳の寺尾(前・錣山親方)戦。負けたほうが幕下に陥落する厳しい一番だ。

 貴闘力は燃え尽きた。そして、翌日、引退を発表。千秋楽まで相撲を取り切った寺尾も、その場所限りで現役を引退した。

 引退した貴闘力は大嶽親方となり、父・大鵬親方が師匠を務める大鵬部屋のサポートに務めた。大鵬親方の定年退職後は、大嶽部屋の師匠となり、幕内・露鵬などの力士を育てた。

 09年のこと。03年に引退後は、貴乃花親方となった「兄弟分」貴乃花から、日本相撲協会の理事になりたいという相談を受けた貴闘力は、10年2月の理事選に向けて票集めに奔走する。その結果、貴乃花親方は理事に就任するのだが、この頃から貴闘力に対する協会幹部の風当たりが厳しくなってくる。

「“相撲協会を変えたい”という貴乃花親方の意見に賛同した親方が一体になって、がんばった結果だったのに、『反主流派』と見られて目を付けられちゃったんだよね。そして、翌年、野球賭博事件が起きて、関与したとされる力士、オレを含めた親方が処分を受けた。自分自身が招いたことなので、仕方がないことだし、クビという処分は“もっと真面目に親方業に励め。他の世界で勉強してこい!”という戒めだったと理解しています」