沢田研二が誕生日を迎え76歳に!時代が“スター”ジュリーを求める理由 マイナーなことをメジャーで

AI要約

歌手の沢田研二が76歳の誕生日を迎え、なぜ長い間「現役」でいられるのかを音楽評論家が考察。

沢田研二の成功の秘訣や個性、異例のキャリアについて解説。

彼が取り組んできた斬新なアプローチや記憶に残る瞬間について紹介。

沢田研二が誕生日を迎え76歳に!時代が“スター”ジュリーを求める理由 マイナーなことをメジャーで

ジュリーこと歌手の沢田研二が6月25日、76歳の誕生日を迎えた。昭和の時代に華々しくデビューしたのち、平成、令和と第一線で活躍、最近ではZ世代の若いファンも獲得している。時代が変わってもなぜずっと「現役」でいられるのか。音楽評論家の中将タカノリさんが考察した。

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 1967年にザ・タイガースのボーカルとしてデビューして以来、日本レコード大賞受賞など日本の音楽史に数々の金字塔を打ち立ててきたスター・沢田研二さん。6月25日に76歳の誕生日を迎えた彼は今年も例年通り、何十本というライブツアーで全国を駆け回っている。「若い頃と体型、容姿が変わった」と言われて久しいが、いくら芸能人でも70代後半になって昔のままというほうがおかしい。最近、間近でお見かけする機会があったが、表情と言い、身のこなしと言い、きわめて若々しく、自然な人間的魅力を感じたものだ。

 昨今の昭和歌謡ブームで、若い人から沢田研二はどんな人かと問われる機会が多くなった。「最近で言うと〇〇みたいな」と言えればわかりやすいのだろうが、沢田さんにはそういう類型がさっぱり思いつかない。

■世紀の美男子は王道を歩まなかった

 世紀の美男子で歌手、テレビの音楽番組に出演していた頃に女性から黄色い声が飛んだという点では「アイドル」には違いないのだが、事務所やプロデューサーの指導で純粋培養されたタレントではなくロックバンド出身。芸能界の頂点に立ってからも群れることはなく、最近はむしろ最低限の交流に留めている感がある。俳優としての実力も備えているが、手がけてきた作品は、よくよく見ればマニアックなものが多い。王道を歩まなかったのに大成功をおさめた唯一無二のスターなのだ。彼はいったいどんな姿勢で自身の仕事に臨んできたのだろうか。

 いっとき彼がよく口にしていた成功則に「マイナーなことをメジャーでやる」というものがある。これは元々、ザ・タイガースをデビューに導いた内田裕也さんの言葉のようだが、1970年代から1980年代前半の全盛期をプロデューサーとして支えた加瀬邦彦さんや、1973年以来、多くの衣装やアートディレクションを手がけた早川タケジさんもおそらく同じ発想の持ち主だったように思う。"まな板の上の鯉"のように彼らの演出を受け入れ、自分のものとして成功できた沢田さんが、経験を元に体得した感覚なのだ。

 日本の芸能界の売り方には正攻法がある。清潔なイメージを大切にし、いつもにこやかに自己主張はせず、ファッションは流行を捉えてはいるが、最先端を切り開くというより、その半歩後ろをいく、見方によっては無難な路線という感じだ。芸術や表現を追求しても万人に受け入れられるとは限らないので、効率よくタレントをマネジメントする上では致し方ない方針なのだが、沢田さんがソロデビュー以降に歩んできた道はそれとは正反対のものだった。

■記録以上の生々しい記憶に残る理由

 まだ男性が化粧することへの偏見が強かった時代にフルメイクでブラウン管に現れ、きわどい衣装を身にまとったかと思いきやPARCOのメディアキャンペーンではフルヌードを披露し、ライブではマナーを守らないファンに感情むき出しでかみついた。音楽性の面でもネオ・ロカビリー、ニューロマンティックといった欧米最新流行の要素を取り入れ、ブレイク前の佐野元春や大澤誉志幸ら新世代の才能を積極的に起用。冒険に冒険を重ねた上で、ソロ歌手としてシングル総売上歴代1位(1982年~1991年)という結果もおさめてきた。まだ大衆に知られていない流行の第一線に踏み込み、それをメディアを通して紹介したインパクトは記録以上に生々しく記憶にも残っていることと思う。