〈追悼・篠山紀信〉「俺に撮るなって言ったのは、お前が初めてだぞ!」40年来の友・立川直樹が明かす「撮影秘話」

AI要約

篠山紀信氏とプロデューサー/ディレクターの立川直樹氏の40年以上にわたる関係について語られたエピソード。

篠山紀信氏と立川直樹氏が初めて仕事を共にした経緯や、イタリアでの撮影の裏話。

立川直樹氏が篠山紀信氏に真摯に意見を述べたことや、篠山紀信氏の反応についての逸話。

〈追悼・篠山紀信〉「俺に撮るなって言ったのは、お前が初めてだぞ!」40年来の友・立川直樹が明かす「撮影秘話」

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今年1月、国民的写真家・篠山紀信氏が83歳で亡くなった。常に第一線で活躍し続けた篠山さんと40年以上の付き合いがあった、プロデューサー/ディレクターで音楽評論家でもある立川直樹氏に思い出を語ってもらった。

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 最初に会ったのは、はっきりどの時にというのは覚えていないんだけど、例えば六本木のキャンティとか、新宿のナジャとか、僕は若い頃からそういう店に出入りしていて、そこで色々な年上の人に、可愛がってもらっていた。そこに篠山さんも来ていた。その頃の僕は派手だったから、「日本人の若いのでこんなヤツがいるんだ」みたいな感じで認識してくれていたと思う。

 初めて一緒に仕事をしたのは1982年の『ヴィスコンティ家の遺香』(小学館)。もともと発端としては、ルキノ・ヴィスコンティの映画17本を集めたボックスセットの企画だった。ヴィスコンティの妹の旦那さんで、ヴィスコンティの映画音楽も担当していたフランコ・マンニーノさんにその企画の話をするために会って、「誰もそんなことは考えなかったぞ。面白いな」って言ってくれて、やることになった。

 それで話をしていく中で、ルキノ・ヴィスコンティが76年に死んで、まだ当時4~5年くらいしか経っていなかったから、まだ色々なものが残っているっていうのがわかった。そこで「本も作りたい」って言ったら、「それも面白いな」ってなって。

 それで、本を作るなら、文章だけよりも写真も入れたいから、「『山猫』を撮影したヴィラ・ボスコグランデとか、ヴィスコンティが少年時代に過ごした湖の近くにある別荘も撮影したい」って言ったら「誰が撮影するんだ?」って聞かれて、「日本に篠山紀信っていうすごいカメラマンがいる」って答えた。『ヴェニス』(新潮社)と玉三郎の写真集、2冊持って行って見せたら、「この人だったらいい」と。それでヴィスコンティ家との話がトントン拍子に進んだ。

 篠山さんも「面白いことを考えるね、君は」って言って、喜んで引き受けてくれた。それで2週間くらいの撮影スケジュールで一緒にイタリアに行った。イスキア島にすごく綺麗なヴィスコンティの別荘があって、彼自身が絵葉書を作っているくらい綺麗なところ。

 そこで働いていた執事とか女中さんたちが、「ルキノ様の本ができるんだったら、私たちが全面協力します」って言って、食事した時のテーブルセッティングとか、飾る花とかライティングとか、全てをきちんと生前の通りに再現してくれた。

 それにはすごく感激したんだけど、でも、ナイフとフォークと花の写真って、最終的に見分けつかないでしょ。まだ、せいぜい4日くらいしか一緒に仕事してない時だったんだけど、篠山さんが夢中で撮っている時に「篠山さん、次のスケジュール考えると、もう撮らなくていいんじゃないですか?」って言った。

 そしたら、横にいた小学館の担当者が真っ青になって、篠山さんが顔がキッてなって「あ!」って言って怒った。その後しばらくは口も聞いてくれない。それで、その日の夜に飲みに行ったら、篠山さんが「しかし、お前はすごいなあ」って。「いろんなヤツと仕事したけど、俺に撮るなって言ったのは、お前が初めてだぞ」って(笑)「でも、お前みたいなヤツがいるから面白いんだよ」って言っていた。あれは、印象的だったな。