「世界的ダンサー」が「57歳で新人俳優」に…“俳優”田中泯を生んだ「名匠との出会い」

AI要約

田中泯はダンサー、俳優、農業者で活躍する79歳のアーティスト。映画やドラマにも参加し、日本アカデミー賞でW受賞するなど多方面で活動している。

映像界との接点は古くからあり、裸体のパフォーマンスから始まり、山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』で俳優デビュー。山田監督による口説き落としで出演し、話題を呼んだ。

『たそがれ清兵衛』は田中にとって人生を変容させる作品となり、言葉と踊りの関係についても考えさせられた。

「世界的ダンサー」が「57歳で新人俳優」に…“俳優”田中泯を生んだ「名匠との出会い」

 田中泯はダンサーである。その踊りは70年代より国際的に高い評価を受け、今なお世界各国からオファーが絶えない。また、田中泯は俳優である。映画『PERFECT DAYS』では踊るホームレスを演じ、カンヌ映画祭のレッドカーペットの上を歩いた。そして、田中泯は農業者である。山梨県北杜市に拠点を構え、泥だらけになって畑仕事に汗を流す。それら以外に執筆活動も行い、2024年3月にはエッセイ集『ミニシミテ』(講談社)を上辞した。そんな、アクティブに躍動を続ける79歳の「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全4回】

 田中泯と映像界の接点は意外に古くからある。

 1977年「ぴあ」の設立者である矢内廣に声をかけられ「第1回ぴあ展」の入り口で裸体のパフォーマンスを披露している。また、伊藤俊也監督の『犬神の悪霊』(1977年)、吉田喜重監督の『嵐が丘』(1988年)、伊丹十三監督の映画『あげまん』(1990年)、そしてNHK大河ドラマ『 独眼竜政宗』(1987年)など、映画やドラマに振付師として参加している。さらに、クリス・マルケル監督は田中泯の裸体時代のハイパーダンスを撮影し、映画『サンソレイユ』(1982年)の1シーンとして使用している。

田中「その頃は、映画というものをどうやって作るか、全然知らずにお手伝いをしていただけですね。出演者としてはっきりと映画に向き合ったのはやはり、俳優デビュー作である山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』(2002年)からです」

 クライマックスで清兵衛(真田広之)と対峙する人物を演じる俳優を探していた山田監督が、ダンサーの田中に白羽の矢を立て、口説き落としたのだ。

田中「こちらは演技が素人ですから、『どうにかなる』とも思ってもいなかったんです。下手すりゃ何日かでクビになるなと本気で考えていました」

 山田監督にとって初の本格時代劇となった『たそがれ清兵衛』は、第26回日本アカデミー賞で各賞を総なめし、本場のアカデミー賞でも外国語映画賞にノミネートされている。そして、田中個人は日本アカデミー賞で新人俳優賞と最優秀助演男優賞をW受賞。“57歳の新人”として大きな話題となった。

田中「最初に出していただいたのが『たそがれ清兵衛』じゃなかったら、僕は俳優をやっていたかどうかわからないですね。かつて、映画制作の世界に“組”と呼ばれるものがあって、ある意味でギリギリ僕は山田組に入れたんだと思います。今はそうした形態がなくなりましたよね。山田組が映画を作っていく様子を見て、『いやあ、これはすごいなぁ』と思って強い関心を持ったんですね」

 すでに20年以上前の作品だが、田中は昨日のことのように語る。

田中「山田監督は僕に『泯さんは死なないんだよね』とおっしゃったんです。映画をご覧になった皆さんは、僕が演じた余吾善右衛門という人物が死んだと思っているでしょう。しかし、血がダラダラ流れて、ゴロンと転がったけど、呼吸を止めることはなく、完全には脱力してない。死んでいないんですよ……と、そういう風に受け取ってもらってもいいんです(笑)」

『たそがれ清兵衛』については、自身のエッセイ『ミニシミテ』(講談社)のなかで、〈人生を変容する大きな節目になった〉と書いている。

田中「言葉を用いる俳優という仕事を始めてから、前よりはるかに言葉について考えるようになりました。一方で、『言葉と踊りってどういう関係なんだ?』とも考えるようになって、逆に“踊りは言葉より以前にあった”ということを強く言えるようになりました」